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2014.06.28 自分史・家族史「渡部正雄兄弟・尚子姉妹との親交」  投稿者:加納 敏江
 
「渡部正雄兄弟・尚子姉妹との親交」
 
加納 敏江
 
 
 夫は旧姓下地彬です。1972年11月、JR八王子駅で宣教師と出会い、12月16日に吉祥寺の第3ワードでバプテスマを受けました。その時の八王子の支部長は岸野陽兄弟でした。翌1973年4月22日、祝福師である渡部正雄兄弟から祝福師の祝福を受け、それがご縁でその後もお付き合いをさせていただくことになったのです。当時は下地明という名前でした。(1980年彬と改名)
 私たちが付き合い始めてから暫くして私は渡部兄弟から手紙をいただきました。1982年のいつ頃だったか、日付がないのではっきりしませんが、縦書きの達筆な毛筆で書かれてありました。

 「敬愛する加納敏江姉妹、突然お手紙差し上げる御無礼を御寛容下さい。11日あなたが下地兄弟と共に神殿参入された時お会いした渡部です。・・・祝福以来十年近く下地兄弟の強い信仰と立派な人格に心から敬愛しております。・・・今度一度下地兄弟と共に神殿に入り(土曜の二時半がよい)済んでからご一緒にお訪ね下さい。夕食でも共にしながら、いろいろお話したいと思います。何分下地兄弟をよろしくお願い致したいと思います。・・・渡部」(抜粋)

 手紙の住所は麻布のアパートになっていて、渡部兄弟・姉妹が神殿宣教師をされていた時でした。
 下地兄弟と私は早速そのようにして夕食を御馳走になりました。お二人とも神殿の奉仕でお疲れのところ、私たちのために大いにもてなして下さいました。渡部兄弟が30年前にヘレンケラーに会った時の話をして下さり、握手をしただけで感涙したのはヘレンケラーだけだったそうです。そのような話を聞きながら楽しい時間を過ごし、私たちが結婚することを後押しして下さいました。寄せ書きノートにお礼を書いておいとましました。これを機に私もご縁ができ嬉しく思いました。出会いとは不思議なものです。
 1982年12月、神殿宣教師をされていた西原良男兄弟の声掛けがあり、急でしたが今年中に結婚しようということになりました。神殿は18日がその年最後の土曜日でした。その日しか選択の余地がなかったのです。丁度私の誕生日でした。下地兄弟はどうしても渡部兄弟にシーラーとして結び固めをして欲しかったのですが、すでに予約がありました。しかし、渡部兄弟は予約を変更して下さり、喜んで私たちのために永遠の結婚のシーラーとなって下さったのです。心から感謝しております。
 1980年12月18日、私たちは渡部正雄兄弟により神殿で永遠に結び固められました。夫には加納の姓を名乗ってもらったので、加納彬となりました。
 1984年長男が生まれてまだ1歳にならない頃、息子を連れて横浜の渡部兄弟のお宅におじゃましたことがあります。すでに神殿宣教師を終えられ横浜の家に居られた時です。渡部兄弟がバナナとキャベツのジュースを作って下さいました。健康のために毎日飲んでいるというスペシャルジュースです。また子供が生まれたことをとても喜んで下さいました。渡部兄弟が写真を撮って下さり、渡部姉妹とカメラに収まりました。懐かしい思い出です。後で写真が送られて来ました。裏には1年半奉仕して来ます・・・と書かれてあるので、台北神殿に宣教師として召された時だと思われます。
 1985年10月、渡部兄弟から「昇栄」という本が送られて来ました。この本の中に下地兄弟の事が書かれているということでした。

(以下「昇栄」より)

18、目明きは不自由だ
「この人が生まれつき盲人なのは、・・・ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ伝9章2,3節)
 八王子支部の岸野支部長に依頼され聖餐式で話をするために、早朝家を出て八王子に向いました。横浜から八王子まで二百二十円、丁度手持ちの小銭がそれだけあり自動販売機で切符を買ったら二十円戻ってきたので改札口で訳を言って二十円を渡し電車に乗り、八王子で降りて、「はっ。」としました。新しい八王子支部の場所を知らなかったのです。支部長に、「チラシの地図を下さい。」と頼んだところ、「車で迎えに行きますから駅に着いたら電話をして下さい。」と言われていた。財布には、十円玉も百円玉もない、千円札をどこかで崩さなければと考えながら陸橋の階段を上り終えたとき、人込みの中に懐かしい盲人の顔が現われました。とっさに名前を思い出せず、「兄弟。」と大声で叫び、近寄って手をとったところ即座に、「渡部兄弟。」と私の手を強く握り、嬉しそうに顔をほころばし、
 「今日は、ほんとうは出勤でしたが、渡部兄弟の話を聞きたかったので神権会だけでもと思って意気込んで来ました。貴方のことばかり考えていたのですぐわかりました。」と私を喜ばしてくれた。私は彼(下地兄弟)から小銭が借りられるのではないかと安心して、
 「実は支部長が駅に着いたら電話して下さい。すぐに迎えに行くと言ってくれているので、今電話しますから。」少しためらいがちに言うと、
 「私は毎日曜日に歩いて通っているので案内します。」と私の手をとった。目明きが盲人に導かれるとは、正に自分のことだなと感謝しつつ従いました。すっかり嬉しくなって話に夢中になっていると、突然、彼は私の腕を引いて立ち止まりました。
 「赤信号ではありませんか。」見上げれば果たして赤信号の交差点に危うく足を踏み出そうとしていました。
 「車の流れの音で判るんですよ。」私は全く頭が下がってしまいました。信仰一筋に生きている下地彬兄弟には、その名前のようにすべてが明らかであり、私たちのように雑念の曇もないのでしょう。(全文転載)

 1986年6月には「悔改」という小冊子がまた送られて来ました。生い立ちから、改宗談、アジアで始めて祝福師に召されての体験談、台北神殿での経験など渡部兄弟の大いなる働きを目の当たりにし、その素晴らしい信仰と証に根差した生き方に、益々尊敬の念を増すばかりでした。
 1988年6月26日、台北神殿での奉仕を終えられてから、八王子ワードでお話を聞くことができました。伝道について、また若者は外国語を何か国語でも学ぶようにと熱く語られました。その後もお二人がアメリカに行かれるまで親交は続きました。私たちにとっては大きな喜びでした。塚田家から尚子姉妹が亡くなられたとの連絡を受け驚きました。暫くして横浜でお別れ会があるというので出席しました。尚子姉妹のいつも穏やかな優しく明るい笑顔が思い出されます。尚子姉妹は短歌を詠まれていて、帰りに短歌の印刷された押し花のしおりをいただきました。「行く末を神にゆだねて一日をつとめてゆかん力ある限り」(渡部尚子 昭41年4月21日)。
 今も大切にこの歌を噛みしめて生活しています。
 それ以来、渡部兄弟とはお会いする機会のないまま月日が流れました。私たちが牛久に引っ越してから渡部兄弟の訃報を知り、リアホナで彼の功績を称える記事を読みました。
 全身全霊をかたむけて主の御業に働かれた渡部正雄兄弟、それを支えてこられた尚子姉妹を肌で感じる親交が出来たことに心から感謝しています。
 6月6日が渡部正雄兄弟の誕生日でした。今年が生誕100年ということです。
 
 

  • 投稿を有難うございました。奇しくも私が人間として吉祥寺でバプテスマを受けたのは、1972年11月でした。渡部兄弟から祝福を受けたのは翌年の4月1日で、初めて訪問した白楽の教会で親しみを込めて話しかけてくれたのは、渡部姉妹でした。なので、とても思い出深く読ませていただきました。あれ以来、ずっと自分の世界に閉じこもりっぱなしで一向に進歩していませんが、まあそれが自分の個性だと割り切って生きています。 -- 昼寝ネコ 2014-06-28 (土) 14:12:37
  • 加納敏江姉妹
    渡部兄弟姉妹とのよき交わりが貴重なものとなりましたね。この世では生者必滅会者常離
    で、よき交わりの時間は短いのですね。渡部正和兄弟が執筆された「母の歌」には尚子姉妹の沢山の短歌が収められています。
    「半年の いのちと宣いし 医師の顔 青き瞳は 穏やかなりき」
    「その昔 孫にきかせし 子守歌 ねむれぬままに 吾が為にうたう」
    「生命の日 先細り行くを 自覚せり 感謝を皆に 残しおかなむ」
    楽しい句もありました。
    「あれを持ち これ着てあれつけ これを持ち 久方振りに心はしゃぎぬ」 -- 岸野みさを 2014-06-28 (土) 22:46:16
  • 昼寝ネコさま
    おかげさまで家族の歴史の一部を残す事が出来ました。知らないところで繋がっていたので驚きました。やはり不思議なご縁なのでしょうか。夫がいなくなって私も閉じこもること多しですが、こうして穀粒に救われています。
    岸野みさをさま
    サムエルで渡部兄弟の息子さんの記事を読み、お父様の生誕100年とあったのでこれを思い立ちました。私たちのお付き合いはささやかなものですが、渡部兄弟が心にかけて下さった事を夫はとても嬉しく思い喜んでいましたから、まとめられて良かったです。尚子姉妹の短歌の掲載ありがとうございました。 -- 加納敏江 2014-07-02 (水) 12:30:22

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