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14080101堤明子

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2014.08.01 自分史・家族史「八王子大空襲」  投稿者:堤 明子

【動画祭2009】Ruins―廃墟になった八王子―
 
八王子大空襲                           
 
堤 明子
 
 
 一九三五年一月、東京都南多摩郡浅川町上椚田に生まれた私は一九四一年国民学校一年生となる六才。
 第二次世界大戦が勃発し、年を追うて国内も戦時色が濃くなり、私の通う浅川小学校の周囲や部落近くにも朝鮮人の飯場が立ち並び、そこから子供達も通学し共に授業を受けるようになった。
 朝鮮人の子供たちは、日本人の友達からは一段と蔑まれ、トイレの掃除もひどく汚れたところをさせられていた事もあった。
 校庭には日本の兵隊が宿舎を建てて駐屯し、私たちも兵隊さんと親しくなり、話したり、遊んだりもした。
 父は若くして死亡し(私が四才の時、三十代そこそこで)祖父、母、姉と弟五人暮しであったが、当時は、父親が次々に出征して行く時代であったので、特に身の上の淋しさは感じる事も無く過ごしていた。

一九四四年(小四)
 警戒警報が発令されサイレンが鳴ると授業は中断され、一斉下校となり、上級生に引率されて帰宅するようになった。当時は六年生の上に高等科と称して高一、高二まであった。

体育の授業……なぎなた、団体行進など。
音楽……戦争に関する歌、銃後の守りを鼓舞するもの。
奉仕……農家への勤労奉仕、特に出征兵士の留守宅や、戦死された兵士の家などへ農作業の手伝いに出掛けた様だった。
どんぐり拾い……下級生共々近くの山林でどんぐりを拾い、兵士の食料にと供出。
からむし取り……小川の渕に群生している植物桑の木の皮を剥いで集める。(両方とも茎の皮を剥いで繊維として軍用品等を造る。)
土手の草刈り……干し草にして、軍馬の飼料にする。(かいば)
松根油を集める……松の木の根を掘って油を取る。
竹の食器をつくる……青竹を切って茶碗をつくるなどして各班毎に一括して提出した。(一般学生は、学徒動員として主に軍需工場へ派遣され私達子供も婦人会の人達と共に千人針を縫い、慰問袋に手紙や絵などを描いて出征兵士に送った。出征兵士は、鎮守の森で神主からお祓いを受け、勝栗を集った村人と共に食べて送り出された。)
家々の玄関先には防火用水が備えられた。

十一月二十四日
 B-29が初めて東京攻撃した日と後で知ったが、ターゲットは軍用施設であったと聞いている。私の実家に程近い、高尾山の周辺には中島飛行機の工場が散在していたので、八王子はそのために標的にされたと、誰彼となく話していたのを思い出す。
その頃か校庭に奉安殿が築かれ、天皇皇后のお写真が配置され、全校で毎日拝殿し、教育勅語を捧げた。

 町の男性も若い教員も次々に出征して行った。
食糧も衣料も切符制で購入するようになった。家にある金属製のものは出来る丈供出せよとの触れが出て、金火鉢や家の窓の鉄格子など、金目のものは殆んど差し出し、お寺の釣り鐘さえも供出されてしまった。バケツリレーでの防火訓練も行ったり、母は郡長として隣り組を取り仕切っていた。

一九四五年
 私は五年生となり十才であった。
 昨暮、東京が爆撃され、次第に敵機の本土空襲が頻繁になり三月十日には、又東京が爆撃された。学校には、大勢の疎開児童が転入して来て、一クラス七十余名となった。親元を離れて親戚へ単身、寄留する者、学校の先生と一緒にお寺へ集団宿泊する者等々低学年には、どれ程辛い日々であった事か。暖房のない本堂で炊事、洗濯、掃除と慣れない作業をこなしながらの学校生活、霜焼だらけの手を見るのも痛々しかった。

 当時の国民の食料事情は日に日に逼迫し、代用食どころか、それすらもおぼつかなく、都心から、主婦が、買い出しに訪れていた。農産物と引き替えに大事な衣類を置いて帰って行く姿も子供の目にもとまった。
灯火管制が敷かれ警戒警報が発せられると、急いで電灯を消し、又、電灯に覆いをして解除のサイレンが鳴るまで身を潜めるようにして過ごしていた。

空襲警報 
 そのうち空襲警報が発せられ、敵機が上空に来ている事が判ると、家族共々、急いで防空壕へと避難した。

防空壕
 我が家の防空壕は、横穴式で、家の側まで来ていた。山肌を横に掘って、中に古畳や、寝具などを敷き、食料明りや、食器なども入れてあり、家族と同居人が入れる程の細長い空間があった。

 我が家の住環境はと言えば、一戸建ての奥座敷六畳と三畳の納戸に陸軍幼年学校(長房に在った)のロシア語の先生と疎開して来たその家族の母親と妹二人が使用し(四人)、中の八畳間と四畳半と台所が私たち家族五人、玄関三畳の間に、高尾の中島飛行機の工員二人計十一名が終戦しばらくまで住んでいた。

八王子が焼けた日
 八月一日の晩、警戒警報もなく、いきなり空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響き、私たちは慌てて防空壕に入るや否や、近くに雷でも落ちたような激しい音や、何とも判らぬ様な物音が聞こえた。郡長をしていた母が、外の様子を確かめて「この中に居たら皆焼け死んでしまうから外へ出て避難しよう」と言うので、母の指揮に従って家の南方面への山道を歩いて現在の東京高専附近へと避難した。
 途中、アメリカ軍の落す照明弾が目前に落ちて、俄かに昼のような明るさになったり、錫かアルミ箔のテープ状のものがふわふわあちらこちらに漂っていたりして、その不気味なものに当らないように用心しながら、恐る恐る大人達について逃げた。
 高台に着き、北の方面を見下すと、一直線に火の海。誰かが「あれは長房の陸軍幼年学校が燃えているのだ」と叫んだ。
 八王子の市街も燃え拡がっていた。頭上には、B-29の巨体に日本の小さな戦闘機が体当たりして、火を吹きながら真っ逆様に墜落して行くのを固唾(かたず)を飲んで見ていた。

 やがて交戦も終わり、辺りが静まりかけた未明、峠を下って村はずれの知人の家に着いて、それぞれに我にかえると、祖父が同行していない事に家族が気づき「おじいちゃんが居ない」と皆が心配すると、そこには避難して来ていた近所の人が集まっていて、「大丈夫、元気でいるよ」と教えてくれて、皆胸を撫で下した。祖父は皆が壕を出て来た時、隣家の藁屋根に焼夷弾が落ちて炎上しているのを見て、一緒に逃げるのを止めて家を守り、消火に当たってくれた事が判った。

祖父の話
 その後すぐ我が家の前庭にある納屋と鶏舎(沢山の養鶏を行っていた)にも次々に焼夷弾が投下され、炎上し始め、母屋にも及んだと言う。納屋と鶏舎はすっかり消失したが、祖父は裏庭にある涸れかけて出の悪い井戸からバケツに水を汲み、一ヶ所一ヶ所目に入る母屋の火を消して行ったと言う。
 上隣りが焼ける時には上(かみ)の方に風が吹き、下(しも)隣の家が焼ける時は下に向って風が吹き、我が家に落ちた焼夷弾も一つ消すと又次にと言うように目に入ったので消して行く事が出来たので、先祖の守りがあったのだと不思議そうに語った。

 近隣は皆農家で養蚕等をしていたので、殆んど藁家が多く構造上、火の廻りが早かったとも思われるが実直で村の為に良く尽くして来た祖父であったから、天の御加護があったのかも知れないと私も思うが…。
 幸い我が家は、父がサラリーマンであったので、当時の農村としては珍しく町場風のトタン屋根であった事で消化出来たのであろうとも思う。
後で聞いた話だが、我が家に落ちた焼夷弾は六発、内四発は破裂し、二発は不発であったとか。
 奥座敷と中座敷の仕切りの欄間には、雷が落ちたように鋭く挟まれて焼け焦げた跡が、家を建て替えるまで歴然として残っていた。
 その日のB-29が投下した照明弾、焼夷弾、爆弾の数はそうとうなものであったに違いない。

 山を下り、家に辿り着く迄の間、昨日まで一緒に学校へ通い、遊んでいた友の家や隣近所が焼け野ヶ原となり、燻った燃え残りの匂いが漂う中に、我が家の母屋と倉が、ぬーと立っているのを見た時は子供ながらにほっとした。
 母屋にあった箪笥やその他の家具が道端に一列に運び出されていた。
 祖父に依ると、朝鮮の飯場の人達が皆で来て運び出してくれたのだそうだ。
飯場の人達の中には、体調の悪い時、食事に困る時、仕立て物をして欲しい時、我が家を頼って来て、母に面倒を見てもらったらしく、恩返しの心算でもあったと思う。
 母の死後の弟の手記に「白米の粥つくりて母は朝鮮人の長き胃病を癒すがために」とあった。
 日頃自分たちでも白米を食する事はなかった時の事である。
 又、ある時は自分が見た事もない乗馬ズボンを朝鮮人に頼まれて、庁紙や生地を探しまわり、夜を徹して仕立てあげたとも聞いている。

 ともかくも住む家が残って有難かった。食料は前庭の鶏舎で丸焼けになった鶏肉と、当に畑から掘ったばかりの納屋の中で焼け焦げたじゃが芋を何日も食べた。朝鮮人も本物の焼鶏と焼きじゃが芋をよろこんで沢山持ち帰った。

学校生活
 八王子が広範囲に焼け周辺の村も戦火を受けたが、浅川小学校は残った。しかし、落ちついて授業など受けていられなかったように思う。
 当時の成績表の評価は優、良上、良下、可の五段階であったが、算数、国語のみ評価されたものを頂いた。
 他の科目については充分に学習する事態でなかったと思われる。

 こんな事もあった。昼は空襲のサイレンも聞かれぬうちにアメリカ軍の小型機が低空飛行して、人影を見つけると誰彼となく機銃掃射を行い、姉なども、下校途中敵機を見つけて、小さな橋の下に身を屈めていたと言う。それからは遠回りして、山道伝いに帰宅したとの事。

B29が再度ビラを撒いた
 八王子周辺が焼けて人々が疲弊しきっていたある日B29がまた飛来して幾度か日本語で書かれたビラを撒いて飛び去って行った。戦争を止めて平和を樹立するようにとの警告であったようだ。

八月十五日玉音放送
 重大発表があるからと、触れがまわり、集会場に大人も子供も皆集った。天皇陛下のお言葉をラジオで聞いたが、私たちは何事か判らずに神妙にしていると、誰かが、「日本が負けたのだと」と悔しそうに言い、無言でそれぞれ自宅に戻った。
 我が家の三畳の間に寝泊まりしていた中島飛行機工員の高橋さんが、何か言いながら自分の下駄を高く振り上げて、玄関の叩きに叩きつけた。
 その晩からは空襲もなく、貧しくとも安眠することが出来た。

戦時中に歌われた歌  
○落下傘部隊の歌(藍より青く…大空に大空に…
○太郎よお前は(太郎よお前は良い子供 丈夫で大きく強くなれ…
○海行かば(海行かば水浸く屍 山行かば草むす屍…
○隣り組(とんとんとんからりと隣り組…
○緑の戦線(雨に打たれてあかしやの…
○馬と兵隊と(濡れた仔馬のたてがみを…
 
 

  • 生き証人の貴重な記録を有難うございました。改めて、戦争が起きないように願うばかりです。 -- 昼寝ネコ 2014-08-01 (金) 22:28:10
  • 堤明子姉妹
    鮮明な記憶力に驚嘆します。当時の学校生活や地域の生活も記されていて貴重な記録となりました。これからもマイストーリーを書き続けてください。
    8月1日はアメリカの陸軍航空隊発足記念日でその祝賀大爆撃が、八王子空襲、富山大空襲、長岡空襲、水戸空襲の一斉空襲だったそうですね。 -- 岸野みさを 2014-08-01 (金) 23:31:34
  • 八王子もこんなにひどい被害を受けたのですね。ちっとも知りませんでした。「廃墟になった八王子」をみて驚きました。戦争という大変な時代を生きて来られたのですね。堤姉妹の戦争の体験の記録を読む機会がありよかったです。 -- 加納敏江 2014-08-11 (月) 18:20:12

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