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15081201向谷 亮

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2015.08.12 自分史・家族史「戦後70年に寄せて 父 向谷正巳の記録」 投稿者:向谷 亮

もう何年も前に亡くなった父が手記を残していました。
長い手記でしたが、その中でも戦争の時期に関わっている部分を抜粋してみます。
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昭和12年 支那事変が起こり 若者はどんどん軍隊に召集され また産業界も戦時の増産体制に入ったから人手不足になる。
長姉が 八幡製鉄所病院に勤務しておりツテを得て、父は製鉄所の製鋼部の傭員として勤務することになった。三交代の倉庫番である。
時間的に余裕があり、履物屋と特約して、下駄の鼻緒付けの下請けをした。母も仕立て直しのほか、鼻緒付けを手伝った。
昭和16年12月、 太平洋戦争勃発。18年、末女(紀子)誕生。
私は、県立小倉工業学校に入学した。家庭経済的には貯金ができるほどではないが 毎日米を小買いしなくても良くなった 家族の念願であった「せめて米一斗のまとめ買いがしたい」は実現したが、その頃は既に物資が欠乏しており、買いたくても物がない状態になりつつあった。
疎開した空き家を借り、一時は二軒に住むことにしたが、新しい借家は姉の和裁教室のためのものである。
赤貧洗うがごとき状態を出したが、物のない時代に突入していた。
この年、水道町から高台にある泉町へ 転居した。
長女は、助産婦の免許取得後、父の友人の仲介で現在の甲奴郡甲奴町大字小童の藤田久一に嫁いで、可部町の隣村でわら製品製造に従事していた。
次女は、強制徴用逃れの為、労務提供会社の事務員として勤めた。
昭和19年、疎開による家屋の取り壊しや、学童・老人などの疎開が始まった。
母と末女(紀子)は甲奴郡甲奴町大字宇賀の本家に仮住まいのために帰郷し、祖父母と一緒に農業に従事した。
世間知らずの祖母のため、母は随分いやな思いをさせられたらしい。
泉町の家は、父、次女、そして私の三人暮らしとなったが、私も学徒動員で現在の旭硝子牧山工場で三交代勤務となっていた。
父も三交代であったが、私とシフトが異なっていたから、同じ屋根の下にいながら、二人が顔合わせる時間がほとんどなかった。
食料は配給以外はほとんど入手できず、疎開家屋の跡地に猫の額ほどの畑に茄子を植え、父は暇を見つけては手入れをし、焼き茄に醤油をかけ食するのがご馳走である。
蛋白源はほとんどなく、たまに次女が組に配給のあった雑魚を持ち帰ることがあり、これが唯一の蛋白源のような状態であった。
サイパン島が米軍の手に落ちてから、日本全土が戦略爆撃の範囲内になり、爆撃は激烈となり、軍事施設を目標としていたものが民家をも狙うようになった。
無差別爆撃であり、原子爆弾の投下も準備されていることは誰も知らなかった。
昭和二十年八月二日。運よく父は勤務時間外、姉(次女)は体調を崩して勤めを休み、私も勤務が午後からのため在宅しており、全く珍しく3人が家にいた。
父は茄子に水やりをしており、朝の10時過ぎに空襲警報が発令されるやいなや、焼夷弾の破裂する音がしだした。我が家は比較的高台にあったが、下の方から家屋が燃え出し、眼下にあった八幡商業学校が見る見るうちに全焼し、近所の人や父と姉は貴重品と仏を抱いて山へ避難した。
私が1人で警戒していると、我が家の裏と隣家の問に、エレクトロン焼夷弾が火を吹いているのを発見し、濡れムシロを被せて鎮火させ、下の家の畳の上で火を吹いているのは押入れから布団を引っ張り出して鎮火させたが、この家は下からの類焼で結果的には燃えてしまった。
この家と我が家との間には一間幅の道路があり、更に段差が一間くらいあったので、我が家から焼けずにすんだ。勿論、消火活動する人間がいなければ全焼していただろう。
一段落して避難していた人たちが帰ってきたが、茫然自失の態で家を焼かれた人たちが、 焼けずに済んだ我が家などに夜に来て泊まり朝出て行った。
夏なのでゴロ寝で、夜具が不要であったのが、せめてもの慰めである。姉の友達の高橋夫人も転げ込み、以後我が家に住みつく。
8月15日終戦となる。 一週間程度の休みの後、私は復学。父や次女は退職し、私は卒業まで八幡に居残り、二人は取りあえず帰郷した。
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父はその後、就職し結婚、そして私と兄が生まれました。
この手記は父が亡くなった後に遺品の整理をしていた時に見つけたもので、そう言えば、父からは戦中戦後の大変だった時期の話を聞いたことはありませんでした。色々な思いがあったのでしょうが、平和な時代にあって子供たちに悲しい話を聞かせることもないと思っていたのかもしれません。

父のように今の平和な日本を創るために苦労して下さった皆さんに心より感謝したいと思います。

  • 向谷亮兄弟
    誰にも語ることが出来なかった高校時代の戦争体験をこうして記録に残された父上は今頃天上で喜んでおられることでしょう。家族歴史を調べるときに父母や、祖父母、そう祖父母のことが少しでも分かると更なる親近感が湧いてきますね。貴重な家族の歴史、戦争の記録を分かち合って頂きありがとうございました。父上は戦争当時ではなく後年記録されたかと思うのですが、目に見えるような情景描写をされているのは、それほどの鮮明な経験だったことを示していますね。随分前に向谷兄弟がお話されていた「押し入れ事件」で押し入れを開けに来た父上がどのように育った人か納得ができました。 -- 岸野みさを 2015-08-13 (木) 06:52:15

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