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15081202伊地知 逸子

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2015.08.13 自分史・家族史「戦後70年に寄せてー昭和天皇陛下のご宿泊」 投稿者:伊地知 逸子

私は鹿児島県鹿屋市の旧家平田太郎と妻白浜久美の一男四女の次女として昭和9年9月12日に生まれました。(旧家とは公家の家格の一つ。天正年間以前に設立された家門を持つ家を指す)

鹿屋市は昭和11年に海軍鹿屋航空隊が開隊して以来、現在の自衛隊鹿屋航空隊基地の町で先の大戦では828名の若者が神風特別攻撃隊菊水部隊梓隊として片道燃料で出撃した基地である。鹿屋特攻隊は南九州市の知覧よりも人員や機体が上回っていました。

小学1年の時戦争が始まりました。ある時私の家の門の前にある山に防空壕を堀るために兵隊さんが大勢で来て作業を始めました。父は御茶菓子としてサツマイモを沢山茹でてザルに入れて持ってきました。防空壕を掘っていた2等兵が作業を終えて来た時には既にサツマイモはありませんでした。再度サツマイモを茹でたのかどうか記憶にありませんが、子ども心に力仕事の後食べ物がないのは辛いと思いました。

また、私の家は兵隊さんの休憩所になっていましたので特攻隊員も10人ぐらいずつ遊びに来ました。おしるこや茹でたさつまいもを出しながら何時も来ていた人がいないので「何々さんは?」と母が聞くと皆おし黙っていました。

学校の職員室の外隣には保安殿があってそこには教育勅語が書いてある巻物が置いてありました。教育勅語の最後には御名御璽(ぎょめいぎょじ)と記されています。御名御璽とは、君主の名前(の署名)及び公印のことです。つまり天皇陛下のお言葉であることをその公印と共に示されているのです。日本国憲法の前文にも御名御璽があります。また現在御璽が使用されるのは、詔書、法律・政令・条約の公布文、条約の批准書、大使・公使の信任状などです。

学校のお弁当は全員がさつまいもと決まっていました。他の穀物のお米や麦のない家があったからです。さつまいも弁当を食べていると教室の窓越しに兵隊さんが手を出して「くれ」というのです。あげました。

生徒たちにはしらみがいました。しらみの退治はすき櫛ですくだけでした。戦後になってDDTを頭に振りかけられました。また、下駄をはいている子供たちは少なく、大体裸足でした。ある時、南洋に出征している父たちから昔の運動靴とゴムまりが贈られてきました。ジャンケンに勝って私も運動靴をもらいました。

学校ではアメリカ軍の攻撃に対して「伏せ!」を訓練しました。ただ地面に頭を抱えて伏せるだけなのです。それに、縦穴と呼んでいた防空壕に避難訓練をしました。

沖縄戦の前、志布志湾にアメリカの航空母艦が来て鹿児島は砲撃されて全焼しました。鹿屋には砲撃はなかったのですが毎日グラマンに攻撃されました。アメリカ軍は鹿屋の基地を使うために砲撃をしなかったのだと思います。私は機銃照射に狙われて伏せたのですがすぐ脇を弾がダダダダダと走り抜けました。
鹿児島が全焼したので鹿児島大学が一時鹿屋に移転してきて私は音楽の男の先生にピアノを習い始めました。それが今も続いている音楽との出会いでした。戦後鹿屋高校3年の時には文化賞総代という賞をもらい、合唱コンクールではソロを歌いました。「菩提樹」とか「流浪の民」です。

敗戦の玉音放送の後アメリカ兵がくるから高隅山に逃げるように言われて、袋を縫ってその中に米を入れて母と子供たちで逃げました。父は残ると言って町に残りました。
2キロも歩くとヘトヘトになりました。すると後ろから「平田さん!」と呼ばれて荷馬車が来ました。私達を乗せてくれました。そのまた後ろからアメリカ兵のトラックが来ましたが追い越して行きました。その時、私は初めて白人を見ました。大勢のアメリカ兵がトラックに乗っていました。

私の家には高隅山に山番人がいました。その人の家に4ヵ月位か疎開しました。実家から今では車で1時間くらいです。川原の水で米を研いで、野菜も沢山あったのでひもじい思いはしませんでした。

中学2年の時大隅半島に昭和天皇陛下が巡幸に来ました。私の家にご宿泊されました。私たち家族は他の家に寄せてもらい、料理人から侍従の人たちも泊まって、昭和天皇陛下はお風呂にも入られて3回くらい湯船に出たり入ったりされた、と聞きました。ガラス越しに様子を見られたのでしょうか。そして、父が揃えた純白の羽二重の布団でお休みになられました。
次の日私たちは訪問着を着て小豆色の御料車に乗られる天皇陛下を御見送りしました。大勢の人たちが集まり日の丸の小旗を振る人たちも居ましたが、大体、頭を下げっぱなしなので顔があげられません。それで拝顔することはできませんでした。
「終戦で大変ですが頑張って下さい」というお言葉を拝聴しました。そして当時のお金で
1万円を宿泊料として頂戴しました。標準価格米10キログラム440円のころです。

戦後、旧家の私の家は広いのでGHQの人たちが家族連れで休憩に来ました。金髪で碧い眼の人たちが子供を抱いてきました。その人たちについてくる日本人女性もいました。
香水をつけてレースのハンカチを持っているのです。私たちはもんぺ姿で、その違いは大変なものでした。

2、3年前に鹿屋に戻った時、海上自衛隊鹿屋航空基地資料館に行って見ました。エントランスに入ると平山邦夫画伯の「桜島」の美しいステンドグラスに迎え入れられました。
これは師の「夕映桜島」を基に、桜島を見納めに出撃して行った特攻隊員に対する鎮魂と平和への願いを込めて製作された作品だそうです。屋外にはゼロ戦実機が展示されていて、屋内には特攻隊員の遺品がありました。特攻隊員の写真が沢山飾ってありました。もしや、知っている人が居るかもしれないと思って捜しましたが分かりませんでした。
売店で鹿屋海軍カレーを2箱といもせんべいなどをお土産に買いました。すると、制服姿の自衛官が出てきてハッとしました。歓迎のご挨拶をされました。

戦後70年が過ぎて世界の情勢も変わりつつありますが、二人の息子に恵まれて平和のうちに生きて来られたことを感謝しています。特に末日聖徒イエス・キリスト教会に導かれて救いの計画の恩恵に預かりました。
8月2日にはオリンパスホール八王子の「響き渡るワ・タ・シvol.5」でピアノの発表をしました。私はG・ヘンデルの「ラルゴ」G・ランゲの「花の歌」ベートーベンの「さらばピアノよ」を3曲で15分間の演奏をしました。スタインウエイの音色の素晴らしさに引きながら圧倒されました。大満足でした。

  • 伊地知逸子様  戦中戦後の悲しくもたくましく生きてこられた感動のお話をありがとうございます。記憶に残る思い出をこのように記事にして残すのも大切なすばらしいことですね。後輩たちの知らない昔の状況をできるだけ記録していただければと思います。暑い熱い夏日がまだまだ続きますが、お身体をお大事に。平和にお健やかな生活でありますようお祈りいたします。 -- 歩く人 2015-08-13 (木) 14:17:36
  • 伊地知逸子姉妹
    戦場となった故里で機銃掃射から逃げ惑った小学生のあなた様が生き延びることが出来たのはまさに主のご加護があったからだと思います。振り返れば人に貴い歴史あり。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲のように「All,s well that ends well」終わりが上手くいったことは全てがうまくいったことになる、ということでしょうか。これから先も「最期まで耐え忍びなさい」の主の命により生き抜いてください。私も後続します。 -- 岸野みさを 2015-08-13 (木) 15:07:07
  • 伊地知逸子様  戦争を生き抜いてこられた生のお話、ありがとうございます。生家に陛下がお泊りになられたのは素晴らしい記録ですね。日本中を巡幸されたと聞いてます。ご健康が守られ、音楽を楽しみお元気でありますように。 -- 朝顔 2015-08-15 (土) 20:36:38

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