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2016.07.15 自分史・家族史「ダイヤモンドは永遠に」 投稿者:岸野みさを

 007シリーズでそんなタイトルの映画があった。笑い話であって実話ではないと思うが、ある少年が「うちのクラスにダイヤとモンドと言う名の双子がいるのだ。スゴイだろう。ダイヤモンドさ」と言った。するとそれを聞いていた彼の友だちは「うちの学校なんかケイとコウという兄弟がいるのだけれど弟が生まれればトウと名付けるそうだ。つまり、ケイコウトウだ」ハハハハ2人は大笑いしたそうだ。

 4月生まれの私の誕生石はダイモンドである。天然石には興味があって海外旅行では必ずと言っていい程何か一つ買い求めた。カナダでは約6500万年前に絶滅したアンモナイトの奇跡の化石アンモライトを、アリゾナでは遊色のオパールを、台湾では金緑色の猫目石、南イタリアのナポリ近郊の港町、トーレ・デル・グレコの工場ではシェルカメオ。購入したブローチにその場で彫刻家が裏側に名前を彫ってくれるサービスがついていた。

 しかし、誕生石のダイヤモンドは何故か見かけなかったし、又、特別買いたいとは思わなかった。

 こう書くと如何にも○○のようだが、ほとんどの海外旅行は企業がコンベンションのために招待してくれたので旅費は1円も払わず、日頃から粗食の納豆食で、持ち物をみな売り払うまではいかないが、高価な真珠を求めたようなものである。あっ、スミマセン。キリストのお話は真珠そのものではなく、天国の象徴(マタイ7:6;13:45、46)として例えているのに、私は真珠そのもののように都合よくすり替えている。

 夫の母の2回忌で息子と夫が帯広に行った時、義母の形見分けがあった。7人の兄弟姉妹やその配偶者が参列して何を受け継ぐかくじで決めたそうだ。夫の代わりに息子がくじを引くと、なんと、宝石を引き当てた。ダイヤモンドのペンダントトップと白地に緑色の縞模様が入っているマラカイト(孔雀石)のネックレスとダイヤモンド入りの指輪だった。2回やったが2回とも同じものを引き当てたそうだ。女性群皆の真剣なまなざしに息子は圧倒されたと言っていた。義母も4月生まれなのでダイヤモンドが誕生石で4月生まれから同じ4月生まれへのくじ運による不思議な受け継ぎとなった。

 ペンダントトップのダイヤモンドの大きさは直径約5mmだから0.5ct。ラウンド・ブリリアン・カット(標準カット)だ。透明で、キラキラ放つ美しい輝き!!しばし見とれている私の目も輝いているのだろうか。早速詳細をnetで検索してみると、ダイヤモンドは地球上でもっとも硬い物質であり、すべての宝石の中で最高のエネルギーと周波数を持っている。ダイヤモンドを婚約指輪にするのはその硬さゆえで2人の愛の絆をダイヤモンドよりも硬く結び付ける意味がこめられているという。しかし、この硬さとは傷がついにくいという意味で、実際トンカチでダイヤモンドを粉々に砕いた信じられない映像を見た。3ctで約200万円だと実験前に専門家が鑑定していた。因みに婚約指輪なるものは夫からもらっていないが、サンチャゴに住んでいる彼の兄からお祝いとして、ラピス・ラズリー、メノー、ジェムストーンの3つを頂いた。それは私が天然石に興味を持つことの始まりとなった。

ダイヤモンドの成分は鉛筆の芯と同じ炭素であり、他の炭素物質とは分子構造の違いで硬度と透明度が形成されているという。鉛筆の芯と同じ炭素?
また、雪の結晶と同様で同じものは2つとなく、時間と場所と偶然が生んだ奇跡だという。

ダイヤモンドのグレードはGIA(米国宝石学会)基準の4つのC、cut(研磨)color(色),clarity(透明度)carat(重さ)であらわされるのが主流だ。 透明度が高く重いものほど高価になる。
硬度:10
屈折率:2.417
比重:3.515
主な産地:インド、南アフリカ、ザンビア、タンザニア、ブラジル、シベリア、オーストラリア、カナダなど。

 (以下は「天然石パワーストーン意味辞典」より転載)
ほとんどの鉱物は複数の元素の組み合わせで成り立っているが、ダイヤモンドは炭素単体からできあがっている。
 地球内部の130~200kmの深さにある、マントルと呼ばれる場所で生成され、その後地殻変動を経て、マグマの流れに乗って地表へと運び出される。

ダイヤモンドをパワーストーンとして見る時は、八面体の原石が最高の形で、これは天と地のエネルギーを統合する理想的な形であり、強力な活性作用と、未来を切り拓いてゆく力、その他にもカリスマ性を与える。
カットをしたダイヤモンドの場合は、強烈な二面性を持つエネルギーへと変化する。
プラス面のみならずマイナス面までも、 持つ人のエネルギーを強烈に増大させる石であり、小さなチップであってもその力は非常に強力である。ダイヤモンドの石言葉は永遠の絆・純潔・不屈である。(ここまで)

「ダイヤモンドのように美しく輝け」と義母からのメッセージが聞こえてくるような気がする。

義母の生い立ち(昨年夫の長姉から聞いた話の引用も含む)

1906年(明治39年4月25日)北村五三郎と松岡かめの5男5女の長女として金沢で誕生。 義務教育終了後(大正13年)金城高等女学校(現遊学館高等学校)へ進学し卒業後、旧制金沢医科大学付属病院栄養部へ進学。日本に初めて栄養学を持ち込み栄養士要請学校が設立されたのもこのころで、婦人の社会進出に先駆けて現在で言う栄養士として臨床の立場に立ちながら勉学に励んだ。

義母は9歳で叔父叔母の家に働き手として養女としてもらわれていった。養鶏業を営んでいたその家では朝学校へ行く前に7つの鶏小屋のそうじをしてからでないと登校できなかった。また母屋の格子戸一本一本にはたきをかけて雑巾で拭くのが日課だった。近くの生家で学校帰りにおやつをもらって帰ると義母はそれを棚の高い所に置くので、手が届かず口に入れることはできなかったという。また「遠足なんか行かんでいい」と言われた。友達が美味しそうなお弁当を持ってくるのに義母が作ったのはうめぼし弁当だった、という。しかし女学校まで出してくれたのだった。
家業を継いでくれる婿は「おんぼでもえったでもいい」と養父母は言ったそうだ。おんぼとは部落民で死体を焼く仕事の人で、えったは獣の皮を剥いで鞣す人たちを指して言う。
つまり、労働力になるなら誰でもいい、ということだった。

 しかし義母は岸野純一郎とめぐり会い1929年(昭和4年)12月金沢で結婚した。岸野純一郎は当時の視学官(旧制度で文部省及び地方に置かれた教育行政官)でその資格はどこの地でも学校長として迎えられた地位だった。2人は北海道に転居してその後台湾に向った。2人は7人の子宝に恵まれ、この間、満州事変、日中戦争、第2次世界大戦へと動乱の時代が続く。

 私の夫はその7人の子どものうち第5子第4男として台湾で生まれた。第2次大戦敗戦後、無一文で引き上げてきて、また北海道に行き、校長職の夫と共に義母は昭和25年から広尾町立豊栄小学校に奉職、昭和34年広尾町立豊似小学校へ移動、昭和39年に退職した。

小学校のころ私の夫は「先生」と言うのを間違えて「母ちゃん」と言ってしまい、同じクラスの友達も「母ちゃん」と呼んでしまったそうだ。

義母との記憶で鮮明なものは私と夫の結婚式のことだった。
写真撮影で手間取り、それは教会員で写真を始めた人を使ってやってくれという依頼に従ったのはいいが、何とシャッターを切るまで、ああせい、こうせいで時間のかかること普通ではなかった。ポーズを取っている夫は次第に疲れてきて表情にそれがはっきりと見て取れた。横に並んでいた私は「ちゃんとして!」と小声で注意するも、とたんにシャッキリする筈も無く、私もカメラマンと夫にイライラしてきた。
 すると周りにいた何人かの人たちの中から義母がスッと近寄ってきて夫に「陽(ひろし)ちゃん大丈夫か?」と聞いたのだ。
完敗だった。母の想いとこれから妻になろうとしている私とはこれほどまでに違うのだ。
しょっぱなから義母には頭が上がらない経験をしたことになった。

私の子どもが小学生の頃、義母は実家の金沢に帰ったとき、現地から電話を入れてくれた。あいにく夫が留守だったので私は色々と話をしたのだが、なんとそれは夫の愚痴だったのだ。
「ご苦労かけて悪いねえ、申し訳ないねえ。みさをさんも辛抱してやってちょうだいね」
話をずうっと聞いていた義母は最後にそう言った。私は恥ずかしい思いで一杯になって自分の未熟さが情けなかった。旅先で私らのことを思い出し案じてわざわざ電話してきてくれたのに、もう少し何とか言えなかったものか、今思い返しても冷や汗がでる。しかもどんな愚痴を言ったのかトント覚えていない始末である。

 義母は時々訪ねてきた。義姉と一緒に箱根を旅した時はとても喜んでくれた。
また、私たちもおよそ年に1回は帯広に行くのだが、2013年4月27日私らと息子娘3家族全員13人で義母に会いに行った。病院の介護病棟で私らが来るというので朝からよく喋り続けていて、今か今かと、私らが到着する5時ころまで待ち続けて、到着した時は疲れ果てて眠ってしまっていた。義姉が義母を起こして私らは一人一人義母と握手をして、義姉は耳が聞こえにくくなっている義母の耳元で誰々よ、と言って教えるのだ。それを一人一人写真に収めたのは私の娘の夫だった。私の息子の長男が握手した時「見慣れんなぁ」と言うので皆笑った。大声で何回も「おばあちゃん!」と声をかけたのは私の娘だった。すると義母も「ありさちゃん!」と力強く大きな声で返事をしてきた。「元気でよかった、よかった!」と娘は繰り返していた。目も見えにくくなっていた。隣りのベッドにも他のおばあさんがいたので私は大きな声を出せなかったが、しっかり義母の手を握ると力強く握り返してきた。
娘は義姉に「体を綺麗にしてもらっていますね」と言った。介護実習で清潔にしてないお年寄りを何人も見ているからだという。髪の毛はチョンマゲのように結わえてあってそれは義姉がやるのだという。更に顔を綺麗に拭って、その日の義姉の楽しみは母が九九を空で言えるので言ってもらい、いろはカルタを義姉が上の句を言うと下の句を義母が答えることだった。
犬も歩けば棒に当たる。
論語読みの論語知らず。
年寄りの冷や水。
花よりだんご。
などである。
亡くなる2か月前まで全部言えたがそれ以降はなかなか言葉が出て来なかった。声を発することが難儀だったのかもしれない、と義姉は言った。歌も歌っていた。好んで歌ったのが尋常小学唱歌「児島高徳」と「牛若丸」だった。牛若丸は3番まで歌いきるのだった。

以前、義妹のメールに映し出されていた画像とは違って、生きている人間だったことが今回の旅行の一番だったと息子と話し合った。その義妹のメールの義母の姿はまるで骸骨のようで、孫たちに遭わせていいものかといぶかったくらいである。
 これが義母との今生の別れになった。

 昭和50年夫の純一郎死去。系図で分かったことだが純一郎の祖父の妻は織田とよと言って織田伊右衛門の娘で織田伊右衛門の父は同じ名前の織田伊右衛門で息子伊右衛門と竹内いとの息子織田岩松は上杉多幾と結婚している。上杉多幾は父上杉甚助と妻、津るの5女である。謄本が取れなくて、そこから上に遡れないのだが改正原戸籍の族称は平民であるが織田信長と上杉謙信に繋がるのだろうか?

義母は平成16、17、18年と骨折による入院で、それ以降10年近くを寝たきりで過ごした。平成26年(2014年)12月1日心不全による低酸素血症のため逝去、109歳だった。帯広市最高齢だった。7人の子どもと13人の孫26人の曾孫をこの世に残して幕の向こうへ立ち去った。

ダイヤモンドのような輝きを放って生涯を全うした義母だった。私はといえば、いまだに、この年になっても鉛筆の芯のようである、と思えてならない。

  • 鉛筆の芯は黒鉛でできています。グラファイトとも呼ばれる元素鉱物です。同素体にダイヤモンドがあります。手許に置くこともままならないダイヤモンドより、利用者が多く、シンプルで親しみやすく、身近で働き者の鉛筆の芯のような人生もまた善し、ではないでしょうか?ちなみに私の誕生石は「ターコイズ」(知らネェ~笑) -- ジェームス・モンド 2016-07-15 (金) 20:49:16
  • ジェームス・モンドさま
    ターコイズ(トルコ石)知っていますよ。濃い水色で綺麗ですね。ダイヤモンドのように輝かなくても、働き者の鉛筆の芯、確かに善しです。 -- 岸野みさを 2016-07-15 (金) 23:03:11

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