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2016.08.20 自分史・家族史「ロマンティック街道の旅」 投稿者:岸野みさを

1995.6.13-6.22

(随分前の記録が出て来たのでご紹介します。今の時代とは情報が異なるところがあります。ご注意ください)

 一行18名は時差8時間、成田から所要時間13時間のフランクフルトに15:30分に着いた。LH航空機は機内が広く、余り揺れもなく、音も小さく、食事も美味で快適であった。
専用バスにてハイデルベルクまで、ヒトラーの遺産であるアウトバーン(制限速度無しの高速道路)を走る。アウト(車)バーン(真っ直ぐ)という意味で、これを造ったドイツ労働党(ナチス)の担当者は戦後罰せられることはなかったという。
小雨はハイデルベルクのルネッサンスホテルに到着のころ、すでにあがっていた。小休止後、市電に乗ってツム ローテン オークセン(牛の家と言う意味。バイエルン牛は巨大である)という名の学生酒場に食事に行く。ドイツで最も古い創立の歴史ある大学のある街だ。街中の人混みを歩いているとき、老齢(?)の飯田才知さんが迷子になってしまった。ガイドの小松良一さんが非常に心配して、しばらく探し廻ったが見つからず、彼はどこかに携帯で連絡しながら、そのまま学生酒場に向かった。私たちも心配で、出された巨大ソーセージに目を見張ったものの、味がよく分からなかった。しかし、飯田さんは先にホテルに戻っていた。さすが歴戦の勇士、何回も市電を乗り換えたのに、なんのことは無かったようだ。
こうして、ハイデルベルクから、ヴュルツブルグ、アルプスのフュッセンまで全行程350キロを通り、オーストリアのインスブルックまで足を延ばすロマンティック街道の旅が始まった。このロマンティック街道という名は第二次大戦後にドイツ観光局が付けたもので、ごく新しい名称だという。ドイツ語のロマンティッシュは、過去、特に中世を意味し、現実に対する夢や、非現実に密接に関連した言葉であって、日本人の思うロマンティックとは異なるのだという。またこの街道はその昔、ドイツからイタリアへの通商ルートだった。

6.14(水)小雨。
 ホテル発8:00時。寒くて小雨の中を昨日見たハイデルベルク城に行く。この城の建築期間は14-17世紀であり、よってゴシックから盛期ルネスサンスまでの建築様式が包含されている。城の厚い壁が所々無残に壊われされているのは第二次世界大戦によるものではなく、「遺産相続戦争」の際のフランス軍による2回の(1689/93)爆破によるものである。ハイデルベルク城は古代アテネの丘の「アクロポリス」やパリの「ヴェルサイユ宮殿」と共にヨーロッパの名高い旧跡の一つに数えられ、およそ年間300万人の観光客が訪れるという。第二次世界大戦ではほとんど戦傷が無かったそうだ。
 雨のせいか、ネッカー河の豊かな水量が濁っている。

* ルプレヒト館を見る。ルプレヒト3世(1400-10の間、ドイツ王)ゴシック式彫刻の双子の天使シュルス・シュタイン。それにまつわる伝説をガイドの小松さんが説明した。

* ハインリッヒ館をみる。バイエルン領ヴィッテルスバッハ家の先祖たちの立像がある。

* 大展望台にて、往時のプファツル領の君主たちが眺め渡したように、眼下の街の赤い屋根、対岸の緑の森、右手から流れてきて西方のライン平野に流れていくネッカー河の流線。見事なり!絶景!

* 世界最大のワイン用大樽(1751年製)をみる。容量は約22万ℓ。フリードリッヒ館の地下に参観用においてある。建造主カール・テオドールのイニシャルがある。樽番の小人の実物大の像あり。名はペルオケ。大の酒好きだったそうだ。

* 有名な騎士の館 ハウス ツム リッターで0.50DM払い、トイレを借りた。12時からだったが、「いいですよ」と若い受け付けの女性。ここは最も古い館で1592年から400年も健在なのである。1693年から10年間は仮の市庁舎として使用されたが、それ以後はホテル兼レストラントとして延々と古き良き伝統を守っている。
どの街も12、13世紀から15世紀にかけて発展を遂げた中世都市をそのまま残すために、景観の変化を恐れて、古都保存と景観保護の厳しい条例を設けて、今でもそれは守られている。条例は街によってそれぞれ異なるそうだが、建物の外観を変えることは法令で認められていないので、内部の改装だけが許されている。ローテンブルクの場合、店の看板の大きさや材質、自動販売機の路上設置禁止など規則が細微にわたっている。

* ネッカー河にかかる橋、アルテ・ブリュッケのブロンズ製像の猿が鏡を突き出して「自分の顔をみてごらん」みたいにしているのが面白い。猿の顔の中に自分の顔を入れて岡部さんが写真を撮っていた。ネッカー河に沿って古城街道を進み、高台のヒルシュルホルンで昼食。初めて鹿肉の料理を食べた。なかなかの美味。そのあと塔に登ってネッカー河と街並みを写真に収める。

* 雨になった。シュヴェービシュ・ハルをコッハー河沿いに歩いてザンクト・ミヒャエル教会に向かう。ハル(hall)とは塩という意味で、塩が採れた所だそうだ。コッハー河に沿って塩泉があった。マルクト広場に接する街の最も高所にザンクト・ミヒャエル教会はそびえ立っていた。野外劇場に使われる有名な所で、教会堂入口の階段がドイツ最大の54段あり幅70mもあるのだ。しかも急坂で怖い。小雨で足元に気を取られて数え切れなかった。12世紀半ばのロマネスク様式の聖堂が1427年にゴシック風本陣に変えられ、1495年―1525年に祭壇部分がロマネスク風からゴシック風に変えられた。故に外観は三つの建築様式が偶然に隣あってくっついているように見える。夫がパチパチ写真を撮っていた。

 ローテンブルクに向う。四方にバイエルンの森と高原が広がるローテンブルクは「中世の宝石」と呼ばれるように、完全に中世の街並みが残されている。第二次世界大戦中、東側40%が焼失したが、中心部は破壊を免れ見事に再建されたのだという。
アイゼンフートという高級ホテルの筈がプリンツホテル。ホテルとは名ばかりの古い民宿のような所。風呂の桶がないのだ。でもお湯が出たので一安心。

* 毎日がクリスマスの店 ケーテ ウォルファルト
目もくらむクリスマスビレッジの店内には、まず広場の中央にある高さ5mの白く輝くクリスマスツリーには仰天した。クリスマス用品はなんでも揃っている。とても全部を見切れる量ではない。名物くるみ割り人形で、紐を引っ張ると手足を挙げてバンザイをする人形を大小二つ買い求めた。また、小さなくるみを二分した半分に聖家族三人がいる珍しいものも、お土産に丁度いいと思って買った。夫は広場で遊ぶ可愛い子供たちの絵のクリスマスカードを買った。

* 鉄看板
街中の至る所に建物から飛び出している鉄看板が見える。これは中世の時代に文字が読めない人のために造られた看板だという。鍛冶道具が描かれている鍛冶屋。ワインカップが描かれている酒場。パン屋は王冠を被ったプレッツェル(焼き菓子)。ホテルや喫茶店、銀行とオシャレなデザインが目を引き付ける。大きさや飾る高さが決まっているそうだ。鉄看板を支えている支柱のデザインもそれぞれ異なっていて芸術的だ。

6.15(木)くもり
 チュンチュンと小鳥のさえずる声がして目が覚めた。窓から見えるのはコケの生えた屋根に生い茂っている木と小鳥たちだ。なんともいえない風景だ。や~、ローテンブルクだ~と満足。民宿で正解だったのだ。
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーといわれているように、60mの溪谷をもつタウバー河から見上げる丘の上にあって、城壁に囲まれている最も名の知られた街だ。ローテンブルクは9世紀に始まり、12-14世紀に最盛期を迎えた。しかし、その繁栄を支えた中継貿易が衰退したため、街の発展は止まり、近年に至る。ローテンブルクは法律で古都を保存し、祝祭日には街をあげて中世の生活を再現するそうだ。1631年ローテンブルクはカトリックとプロテスタントの30年戦争でプロテスタント側に転じた。街が無傷だったのは、「このジョッキのワインを一息に飲み干せる者がいたら街を焼き払うのをやめよう」と皇帝軍名将ディリーの挑戦に、ヌッシュ市長が立ち上がり、3・25ℓものワインを一息に飲みほして街を救ったのだという。そのマイスター・トゥルンクは、マルクト広場の市参事会酒宴館の仕掛け時計に1日7回、特大ジョッキを傾ける人形の市長とそれを見守る人形の将軍が現れて、この街の歴史を演じている。
どの街もその中心はマルクト広場であり、「祈れ、そして働け」というカトリックの教えに忠実に従ってきたのである。30年戦争の最も被害が大きかったのは南ドイツだという。

プリンツホテルの朝食はまあまあというところ。ローテンブルクの城壁を歩きたかったが時間がなくバスでタウバー河を見下ろしながらローテンブルクの丘を後にした。このローテンブルクはフランケンのエルサレムといわれて、エルサレムに行かれないキリスト教徒がローテンブルクに巡礼に来たことからそう呼ばれるようになったと現地ガイドの説明があった。振り返ってローテンブルクの丘を見上げると、確かにエルサレムの風景に似ている。

* デトヴァングの教会に到着した。30分もかからなかった。まだ開いていなかったので、近くの野を散策。これがまた素晴らしく美しい朝だった。緑の野、澄んだ川、静かな家々。遠くの丘に牛が放し飼いになっている。心に沁みてくる風景を何枚も写真に収めた。
デトヴァングの教会では16世紀ゴシック彫刻家の巨匠ティルマン・リーメンシュナイダー(1460-1531)の「クロイツ・アルタール」(十字架上のキリスト)を見た。私は今までキリスト教徒として絵画や大理石像に表現されたキリストを見てきたが、木彫りの像は初めてだ。木彫りの固さは全く無く、垂れた頭、くい込んでいるいばらの冠、こけた頬、閉じた目の周りのしわ、髪の毛やひげの一本一本、苦悩の表情、さらされた身体のあばら骨、脇腹の傷痕、十字架の下で悲嘆にくれるマリヤやヨハネや人びとのそれぞれ異なる姿や表情が、彼らの衣服や布の流れや、ひだまでがくっきりと鮮やかに彫られている。
人類の罪を贖うために十字架上で血を流し、贖罪を成し遂げたキリストの苦悩と悲しみの姿は、我らの罪の身代わりであり、我らが生きる為に、御子イエス・キリストは死んだ。「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」(イザヤ53:5)この聖句が、彫刻という技術を超えたところで完璧に表現されていると感じる。
同行者の誰もが無口で言葉も交わさず、黙って見入っていた。

* ヘルゴット教会の「マリエン・アルタール」(聖母マリヤ昇天)を見る。リーメンシュナイダーが高さ約11mの菩提樹を彫り抜いて、クリクリンゲン村にあるこの教会のために製作した作品。裏側に丸窓のようなガラス窓があって、そこから光が入って、人物の表情が変化していくように創られていると、現地ガイドの説明があった。中央の聖母マリヤの姿に惹きつけられる。神々しくも悲哀に満ちた表情はすでにこの世のものとは思われない聖なる美しさである。また、合わせている手の表情も美しい。
 宗教改革が始まるとクリクリンゲン村人は「マリエン・アルタール」の祭壇の左右のパネルを閉じて全体を死者のための花輪を飾る板として利用し、30年戦争の破壊を免れたが、それと同時にこの作品は世から忘れ去られたのである。1832年になって、ある芸術愛好家がこのパネルを開き、ようやく人の目に触れることができた。

* 聖ヤコブ教会で「ハイリッヒ・ブルート・アルタール」(聖なる血の祭壇)を見た。リーメンシュナイダーが市から注文を受けて製作した(1499-1505)祭壇で、言い伝えによれば、金箔の十字架(1270年頃)の中にはイエス・キリストの聖血3滴が入った水晶がはめ込まれており、それ故に聖血祭壇と呼ばれているという。中央の彫刻は「最後の晩餐」の場面である。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」とイエスが言われ、金袋を握っているユダに一切れのパンを与えて「しようとしていることを、今すぐするがよい」(ヨハネ13:21-27)と話された瞬間を描いている。テーブルを囲んでいる12使徒たちの動揺とざわめきが伝わってくる。顔を背けている使徒はリーメンシュナイダー自身を描いたという。12人のそれぞれの異なる表情がその場の緊張感を表している。
リーメンシュナイダーはヴュルツブルグの市長も務めた。現代では芸術家が市長を務めることは考えられないが、当時はごく当たり前だったという。1525年に起こった農民戦争で彼は農民の味方をしたために逮捕され、マリーエンベルク城に閉じ込められて、拷問を受けている。その後釈放されたが、市参事会から追放され、財産も没収された。釈放後の作品は一点も無く、1531年7月7日、70歳過ぎて死亡した。

* マイン・フランケン博物館を見る。リーメンシュナイダー作石像の「アダムとエバ」をみる。手足だけが木彫りだ。二人とも左手が破損している。エバの右足元にへびが立ち上がっている。

* 中世犯罪博物館をみる。ここはヨーロッパ唯一の刑事関係コレクションのある博物館で、1000年以上の刑罰の歴史が3000点以上集積されていて、地下では拷問や処刑の道具が展示されていた。断頭台、首切り斧、針の椅子、生きた人間の血を要求し、かつ使用されたそれらの道具をみたとき、中世の暗部に触れたようで背筋が寒くなった。既婚女性用の貞操帯を見て男性たちが笑っていた。館内案内書はドイツ語英語日本語表示があり、展示品には日本語の説明書きがあった。

* 大宮殿レジデンツを見る。18世紀ドイツ・バロック建築を代表する豪華絢爛に飾られた大宮殿。ドイツ最大の建築家バルトハーザー・ノイマン設計。欧州重要文化財の一つで天井フレスコ画のある「階段のある間」や「皇帝の間」が見事である。皇帝の間の天上画はベネツイアの画家ティエポロの作品で目もくらむほどの色鮮やかだ。最近日本人数名を含めて復元されたのだという。花が咲き乱れていたレジデンツの庭園が美しい。広場のフランコニヤの噴水にはリーメンシュナイダーの像があった。ここで毎年6月に世界各地から一流の音楽家が集まり「モーツアルト音楽祭」が開かれる。

* バートメルゲントハイム 中世のドイツ騎士団が十字軍で活躍した後、東方植民に力を入れ、この街を造りプロイセンの基礎を造った。厳めしい紋章に守られた居城はバスで通過したせいか、紋章がよく分からなかった。1806年ナポレオンによって、ドイツ騎士団は解体された。
バートとは温泉という意味。マルティムパークホテル(クワ・ハウス)に宿泊。このホテルの庭にある3種類のお湯を味わってみなさい、と小松さんに言われて、行ってみた。なま暖かく、塩辛く、炭酸マグネシュウムといった感じで、口に含んでは吐き出して、とても呑み込めるものではなかった。色々な病気に効果があるという。ドイツ女性らしき2、3人に吐き出しているのをチラチラと見られてしまった。

6.16(金)晴れ
 バートメンゲントハイム →ディンケンスビュール →アウグスブルグ →フィッュセンの行程。昨日は雨雲の田園風景の中をバッハの曲を聞きながら、麦畑、牧草畑、菜種畑、トウモロコシ畑をバスは走った。

* アウクスグルブ 14-15世紀にヨーロッパの富を集中した商人の街としての大中世都市だ。初代ローマ皇帝アウグスッスをたたえて、継息子であるテベリウス・ドルーズが2000年前に陣営を築いた時から始まった。しかし、この街の歴史はひとえにシュバーベン地方のフッガー、ヴェルザー、バウムガルテン、ヘヒシュテッターで代表される大富豪たちによって左右された。彼らのモットーは「オリエントからベネッエラまで」であった。フッガー家の富は想像を絶するものであり、上層階級の市民の館や壮大な教会建築にとどまることなく、皇帝や領主司教を支配し、出征用の資金も調達したのである。モーツアルトの父レオポルドやディーゼルエンジンのディーゼルもこの街の出身者である。

* フッゲライを見る。ヤコブ・フッガーの残した貧民救済住宅
蔦のからんだ2階建て53軒には350人が住んでいる。今でも年間1.75マルク(約140円)の家賃だ。フッガー家の紋章はユリと鹿である。立派なフッガーのレストランで昼食。

* ドイツの教育制度。ディンケンスビュールに行くバスの中小松さんが、ドイツの教育制度について話してくれた。ドイツは15歳まで義務教育でそれ以降はギムナジユームかリアルシュールに分かれるのだという。ギムナジュームは19歳迄→大学→政治家とか国の重要ポストにつき指導者層につく。
リアルシュールは実務校だ。人間の脳力には最初から差があるので、それを日本のように無理やり同じ方向に進ませても子供たちは幸福にならないのではないかという。
ドイツは日本より労働条件が良く、自分の職業にガンコなまでプロ意識と誇りを持っているという。そういえば、ローテンブルクのプリンツホテルでも結構な老人がスーツケースを黙々と運んでいたし、バスの運転手の27歳の女性も私たちが自分のスーツケースを運ぼうとするのを断っていた。

* ドイツの労働時間。1991年には年間1800時間だったが現在は1600時間。一日7時間週5日制。休暇条例があり、商店は日、祝は開けてはならぬ。土曜は3時までと決まっていて、それを守らないと罰金みたいな税金がかかるのだという。1860年に労働時間を短くしようという運動が始まり、BMやベンツなどの質の高い労働力と省力化で成功したのだという。
1989年東西ドイツの壁が倒壊して1990年東西ドイツの統合。トルコのパートナーがドイツなので、トルコ系の移民が多く、街はずれに彼らのためのアパートを建てて、食物を与えているので、ドイツ人の就職できない若者たちがネオナチなどと呼ばれて騒ぎを起こしたりしている。トルコ系移民は国籍がないため、半年くらいは仕事に就くことができないので、そんな彼らを養っている制度が社会問題になっている。
フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ、ポルトガル、スペインの7か国はパスポートチェックがない。

* ドイツでは100m四方に50mの道路。
日本では100m四方に7mの道路の現状で、現在15mにしようとしている。
* 92年ドイツの酸性雨被害は森の25%が重傷で幹に傷がついている。森の39%の葉が枯れている。これらは黒い森と呼ばれている。

* ディンケンスビュールでは子供たちが街を救ったので、それを記念したキンダーゼイヒンの祭りがある。街並みがローテンブルグよりも大きな家が並んでいる。

* ネルトリンゲンの街は隕石が落ちてきた街といわれている塔は隕石の一部を使って造られた。ローテンブルグ、ディンケンスビュール、ネルトリンゲンはドイツ中世3大都市である。

* バス停からディンケンスビュールのマルクトプラッツまで歩く。帰りに急に雨が降ってきて走った。ここは美しい田舎町であり、現在もアウトバーンの引き込みに反対している政治家がいる。大企業の移入を拒み、工業化の波から、農耕、畜産、手工業の小規模経営を守っている。その結果、古きものが保たれる結果となり、観光業からの利益を得ているのだ。旅行者の博物館参観などのごった返しや土産物買いの混雑などはなく、他所以上に街全体が自信を保っているのである。

* フュッセンのシュバンシュタインホテルに宿泊。感じのいいホテルで食事も美味しかった。フィッセンはドイツで一番標高が高いという。アルプスの山々とノイシュバンシュタイン城が小さく見える。

6.17(土)晴れ
 朝早く外に出て写真を撮っていると、高橋さんご夫妻も遠くで手を振っていた。彼らは家も財産もなく、唯一、二人で世界を旅しているのだという。ご主人は、自分は70歳を過ぎている、とヒルシュルホルンの昼食時に自己紹介をしていたが、10歳は若く見える。シュヴェビッシュハルでも雨の中を傘などさすことなく、カッパ姿で荷物も少なく旅慣れている。彼はツム ローテン オークセンでは宮城さんのビール攻めに苦笑いしていた。
 
* ノイシュバンシュタイン城見学。
バスから降りて山道を登り、ペラート溪谷のマリーエン鉄橋から下方向に美しいノイシュバンシュタイン城を見る。しかし、恐怖の高さは91mである。ここからバイエルンで最も美しい景色が一望の元に収められる。左に澄み切ったアイプ湖、右に小さなシュバーン湖(白鳥湖)、その中間にホーエンシュヴァンガウ城が小さく見える。アイプ湖の後ろの森に覆われた山はオーストリアとドイツの国境で、その後ろにチロルアルプス(タンハイム山塊)が連なっている。ルートヴィヒ二世はリヒャルト・ワーグナーに「私はホーエンシュバァンガウの古い城の廃墟に新しい城を建てようと思っている。…見つけうる限り最も美しい場所です…」と書いてある、正にその通りの場所だった。
バイエルン国王ルートヴィヒ二世の悲劇の生涯を知る。1864年3月10日に父王のマキシミリアン二世が死にルートヴィヒは18歳半ばで国王の座に就くことになった。学業を終了しておらず、政治には参画していなかったため、政治上の決定はバイエルン議会の両院でなされ、王は単に一代表者という扱いになった。
ルートヴィヒはそのため、音楽と文学を愛し、19世紀の作曲家リヒャルト・ワーグナーをミュンヘンに迎えて劇場と城を建てることに考えがいったと記されている。ノイシュバンシュタイン城のなかには、ワーグナーのオペラ、ローエングリーン(白馬の騎士)伝説が描かれている。この城に王が住めるようになったのは、1884年の春で、ワーグナーはその一年前に死んでいるので(1883.2.13)この城の中を見ることはなかった。城内の各部屋に白鳥のモチーフが見られるが、それは、白鳥はシュヴァンガウ城の城主の紋章であること、白鳥は清さの象徴であり、王が特に好んだ、ワーグナーのオペラ、ローエングリーンで白鳥が重要な役を担っている、という3つの理由によるのである。
1869年ノイシュバンシュタイン城の定礎が敷かれ、今日の型のリンダーホフ宮が1874年に建てられ、1878年にはヘレンキームーゼー宮の建設に着工した。1885年にはファルケンシュタイン城建設の準備に入った。
 1879-1880年のノイシュバンシュタイン城建設だけで膨大な資材が必要であった。統計によれば、
ザルツブルグの大理石 465トン
ニュルティンゲンの砂岩 1550トン
れんが(帝国サイズ)40万枚
砂 3600立米
セメント 600トン
石炭 50トン
木炭 40トン
足場用木材 2050立米
が使用された。
ノイシュバンシュタイン城は白雲岩の岩盤を8mほど爆破して低くしてその上に建てられた。若き王は企画、設計、建築、内装に関わり、細かいところまで口を出したので、「ノイシュバンシュタイン城は王の独創的総合芸術作品」といわれている。
建築には王宮建築主任のエドゥアルト・リーデルが任命され彼の設計をミュンヘンの画家クリスティアーン・ヤングが完成画に書き直した。
 城の大きさは長さ130m、建築敷地面積2,557㎡建物容積67,179立方メートル、本館は(棟まで)56.94m、主塔の高さは79.16m、四角塔は48.22m、利用面積は5935㎡である。
工事は何百人という職人の職場や商人の取引を創出し、この地方全体が2年の間城の建築に関係していた。
 建築資金の出所は、国王の私財と王室費(国家君主の給料)が使われたが、これだけでは不十分で、ルーヴィヒは多額の負債を抱えて死んだが、その死後家族により返済されている。ヴィッテルスバッハ家の古文書館に収められている王室会計の主帳簿によれば、1886年の建築終了までに建築に要した費用は計6,180,047金マルクだという。
 
城の中にある売店で絵葉書やポスター等を買う。城の入口のトイレが故障していたり、全部ではないが、鍵が開かなかったりして使えず、ドイツの若い女性たちが困っていた。しかし、売店を出るといくつもの立派なトイレがあった。それを表示してあればいいのに、と思った。
 城の見学を終えて、近くのアルプ湖に行って写真を撮っていると、年配の女性たちが「ハンシン?」と聞いてきた。「阪神はどうなっているのか?」
「あなた達は阪神から来たのではないでしょう?」という意味か。ガイドの小松さんが受け答えをしていた。阪神大震災が心配されている。
 
* 昼食後ヴィース教会を見た。
ヴィース教会(牧場の教会という意味)は森と湖と牧場に囲まれた神の庭ともいわれている。ドイツの娘たちが結婚式を挙げたいと夢見ている教会だという。
 ロココ風巡礼教会で、建築技師ドミニクス・ツインマーマンによる作である。ロココ様式の装飾は兄のヨハン・バプテスト・ツインマーマンによる。ユネスコの世界文化遺産に指定されている。

* リンダーホフ城に向かう。この城はルーヴィッヒ二世の3つの築城の中で唯一完成を見た美しい城で、噴水のある庭や、ヴィーナスの洞窟がある。城の中の黄金の間は目もくらむ黄金の輝きが燦然としていて、頭がクラクラしてきた。こんな部屋でくつろげるとは、やはり王は気がヘンだったのか。
 今日はコンサートがあって、そのリハーサルの美しい声が聞こえてきた。深澤さんとヴィーナスの洞窟には行かず、リハーサルの準備をしている庭で、しばし休憩。夫は写真をパチパチ。開演時間になると、二人の女性がチケットを売りに来た。
 帰り道、この音楽会に向かう車の列が反対車線で渋滞していた。
着飾ったドレスの女性や、普段着の女性と様々だった。

* ガルミッシュ・パルテンキルヒェンと、舌を噛みそうな名前の街で宿泊。1936年冬季オリンピックが行われた。この地は、リヒャルト・シュトラウスがこの世を去るまで40年間住んだ地で、アルプスの山々を見ながら楽想を練ったという。「アルプス交響曲」はその産物である。
 ロマンチックホテル15号室に案内された。なんとカラオケの真上でガンガンやっているのだ。11:40分まで我慢したが小松さんにTELすると、「部屋変えますか?」と聞かれたが、もう遅い時間だ。カラオケは12時に止んだ。
 今日は美しい城を見たのに、夜になってこんなことになってガックリきた。土曜日だから皆楽しんでいるのかもしれないが、宿泊客にはたまったものではない。
 
6.18(日)晴れ
 今日はオーストリアのインスブルックに行く。インスブルックはイン河に架かる橋という意味だそうだ。人口10万人。1964、1976年に冬季オリンピックが開催された。片道約1時間半でチロル州インスブルックへ。フェルン峠を西に行く。フェルン峠は見事なアルプスといった風景だ。オーストリアのオーストとは東という意味。
フェルン峠でオリンピックのマスコット人形を買ったりした。
トイレはオーストリアシリングでまごまごしていたら係りの人が手のひらに乗せていたコインを取ってサッと入れてくれた。オーストリアはドイツ語で共通。
 国境は簡単だった。係官がバスの中にはいって来て「こんにちは」とかいって、皆の顔を一回り見て「さようなら」でおしまい。ガイドの小松さんが盛んに「菊の御紋章はありがたい」と言っていた。
 オーストリアを出る時スピードのコントロールメーターをチェックされたそうだ。
 インスブルックのハプスブルグ家の皇帝たちに愛された小さな街を徒歩観光。日曜日でほとんどの街が閉まっていて残念だった。開いている店でいろいろ買って(安息日に買い物はまずいが)素敵な刺繍のブラウスを見ていたら、店員がどうですか?みたいによってきた。試着の時間が無くて残念だった。村岡さん(女性)と夫と3人で教会があったので、入ろうとしたが時間外で閉まっていた。
 オリンピックのジャンプ台までバスで登って行った。見事なジャンプ台でインスブルックの街全体を見渡せる位置にあった。

* ノルトケッテン(海抜2300m)に登った。北の鎖という意味。
これまた、村岡さんと3人で頂上まで登った。ほんの数十m登っただけで景色が一変した。それでも頂上までは100m位はあった。
底までは見えない溪谷から、強い風がビュービュー吹き上げてくる。小さくまとめた登山用の薄手のヤッケを着込んで寒さを防いだ。ヤッケの色は真っ赤。

* アルペンローズで食事。
中華料理で全体に塩辛いがまあまあ。チャーハンは美味しかった。隣り合わせになった高橋さんとなぜか次の世界の話になって、戦争体験者の話になったりしてしんみり。「我々の思いは理解されないので話さないのだ。」と言う。詳細は語らなかったが死んだ戦友が訪れたと言っていた。戦争体験者の苦痛を垣間見た思いがした。
少し息苦しい沈黙が続くと、そこへ小松さんが隣に来て一転「同性愛はそれはそれでいいと思うよ。」なんで同性愛の話に飛んだののか思い出せないが、「じゃあ、人類が滅びるのね。」と私が応酬した。彼らは子孫存続などを考えていないのか。同居している相手が死亡したときには遺産相続はしたいので法律を変えてくれ、とは言っている。
(2016年、最近では養子を迎えるのが普通のようだが、それを禁止している国もある)

* 食事の事。
ドイツに来て最初の日はツム ローテン オークセンでの寝ぼけ眼で巨大ソーセージを味わった。マルチムパークホテルでは何回もナチュラルウオーターを注文しても、日本のような水が出てこないので、Vittlとかvolbicとか言っても「そんなの知らない」というし、料理の数は間違えて持ってくるし、夫は魚料理ではないのに、魚がでてきたり、挙句の果ては最初の注文を取った若い男性がなぜか私の処に来てメモを見せて、注文通りにやったのだ、とドイツ語で激しい口調でまくし立てた。チラとナチスドイツが思い浮かんだほどだった。結局オーダーに来たのが2人の男性と1人の女性、計3人だったことと、私達も8人でワーワー言ったことがミスにつながったようだ。夫は機嫌が悪くなるし、女性がお詫びなのか注文してない立派な入れ物に入っている料理を夫の処に持ってきて、夫が要らないと言っているのに、ドイツ語で何かペラペラ言うと、それをテーブルに置いて行った。「じゃあ皆でいただきましょうよ」となった次第だった。小松さんが外に行ってしまってこのハプニングになった。
 帰りのバスの中で小松さんが13-14世紀のハプスブルグ家の話をして、最後の君主マリヤ・テレジヤの話をした。神性ローマ皇帝カール6世の長女として生まれ、夫のフランツ・シュテファンとの間に男子5人、女子11人の子を成した。末娘マリア・アントワネットはルイ16世に嫁いでフランス王妃となったが、フランス革命に巻き込まれて、断頭台の露と消えた。

* オーストリア国歌「山岳の国、大河の国」はヴォルフガング・ アマデウス・モーツアルトが作曲したといわれているが、異説もあるそうだ。

* バイオリン博物館
 バイオリン作りの街、ウッテンバルグをバスで通過した。

* ロマンチックホテル。
ロビーの男性に今日は何時までカラオケがあるのか小松さんに聞いてもらった。11:30分までということだったので、部屋を変えてもらった。何と自分で重いスーツケースを持ち上げて階段を次の階に登ったのだ。人手がないのだ。
 小松さんの恐縮な物言いに面食らった。まるで、こちらが迷惑をかけているかのような態度である。受付の青年はソフトで意に介さないような物腰で、客あしらいの上手な20代に見える男性だ。
マルチムパークホテルのナチスドイツとはこれまた違っていると思った。
 部屋が変わるとカラオケの音は遠くになった。広くて良い部屋だが、髪のシャンプーを洗い流そうとしたら、もう水になってしまった。次の朝そんな話を高橋登喜子さんにすると、「それは、まだいい方よ。私なんか、最初から水だった。」ということである。一人48万円払っている旅行なのに、と思った。そういえば、最初のホテルのみが予定通りで、あとは全部ヘンなホテルに廻されている。
日本旅行もこんなことか?毎日小松さんは現地のガイドと連絡し合っているのは宿泊所確保のためのようだ。

6.19(月)晴れ
 今日はドイツ最高峰ツークシュピッツェ登頂。
ドイツ、オーストリア国境上にあり、山頂には国境の検問所もある。
登山電車とアイプゼー(アルプ湖)ケーブルで2964mの頂へ。高さ1000mをたったの10分で登頂。このケーブルは恐怖の吊り上げケーブルだった。
ふっと、どこかで見た景色のようだ、と。思い出したのは映画「荒鷲の要塞」だった。リチャード・バートンがこのケーブルを使ってドイツ軍の要塞に捕虜となった連合軍の将校を救出に向かうという映画だったと思う。
天気は晴れてはいたが、カメラを向けているアルプスの連山がガスですぐ変化してしまう。何枚か、いいのが撮れたと思う。自分が感動した風景では必ずよい写真が撮れる。壮麗な山々のパノラマ展望プラットホームからの眺めは唯、呆然だ。アルプスはヨーロッパ大陸南部の地中海近くに位置し、ドイツ、スイス、オーストリア、リヒテンシュタイン、イタリア、フランスの6か国に渡って、ほぼ、東西に延長する長さ約600㎞、幅最大150㎞の褶曲山脈である。(しゅう曲という地質構造は、厚い堆積層が横方向圧により、布を折りたたんだ形に積み重なることをいう。)
ここでまた村岡さんと行動が同じになった。売店で買い物をしてコインを捜していると「エン?」とか言って女店員に100円玉をさっと取られてしまった。50円くらいの買い物なのに、50円玉が無かったのだ。ま、いいかと思って抗議せず。
ケーブルを降りてからアイプ湖の周辺を散策した。大勢のドイツ人たちが散策していて、結構年配者も多かった。ドイツ人は歩くのが好きだという。
 昼食は湖畔にある美しいホテルEtbsee ホテルだ。トイレは1階で0000となっていた。ガイドブックで読んではいたが、ほとんどがToiletだったが、はじめて0000という表示を見た。なんで0なのかな?
美しいホテルなので、夫はパンフレットをもらってきた。ベランダの様な所で、アイプ湖とツークシュピッエを眺めながらの会食はなかなかのものだった。ドイツ人の団体もいた。

* シュタルンベルク湖を帰りのバスで通ったが、私は眠ってしまって見られなかった。ルートヴィヒ二世が謎の死を遂げた湖である。
 フィッュセンのシュバンシュタインホテルで、ルートヴィヒ二世生誕100年祭のTVドラマを放映していた。白黒でドイツ語だったが、その問題の水死のシーンは、主治医フォン・グッテン博士とボートの中で揉み合って、ルートヴィヒ二世は心臓発作のような状態になって、ボートは転覆した。1886年6月13日のことである。今日に至るまで、二人の謎の死は解明されていない。色々な説があるが、どれも証明に欠けているという。

* ミュンヘン
ミュンヘンに到着して、高橋さんというガイドがついた。小柄で痩せているのに歩くのが速い。30歳前半くらいか。ミュンヘンとは小坊主という意味だそうだ。
 ニンヘンブルグ城見学。ルートヴィヒ二世はこの城で生まれ育った。

* ピヤ・ヤーレス サイテン ホテル
ようやくホテルらしいホテルに泊まれた。夕食は
原、上野、阿層、小松、と私ら二人でピザを食べに行った。固くてあまり美味くはなかった。他の人たちは有名なビアガーデンへ。
「ビールさえあれば、人生は楽しい」という陽気な街ミュンヘンである。
 マリーエン広場にある市庁舎の仕掛け時計で等身大の人形が騎馬戦を演じている。ミュンヘンのシンボルであり、市最古のフラウエン教会には二つの塔がある。ところがその塔は左右で1mの差があるのだ。南塔が100m、北塔が99m。
 ミュンヘンは19世紀前半、中世都市から王国の首都へと変わっていった。街を囲む城壁は不要となり、ルートヴィヒ一世はこれを取り去り、壁跡に幅広い環状道路Ring(リンク)が生まれた。
マクシミリアン一世とルートヴィヒ一世、二世は高い芸術意識を持ち、数々の名建築や、博物館、美術館、劇場などを造営し、ミュンヘンをドイツ随一の芸術と文化の都に育て上げたのである。

6.20(火)晴れ
 運転手のハイディさんが8:30分になっても集合場所に来なかったので、タクシーに分乗してダッハウKZへ向かう。ドイツ語でカーゼットと発音する。収容所という意味だ。
 ミュンヘン市の北部にあるナチス時代のもので、建物の中の展示室には、アメリカ軍撮影や、ナチス撮影の写真が壁いっぱいに貼られていた。苦痛と恐怖におびえている青年たちの写真を正視することができなかった。ジロジロ見ていた村岡さんの神経が気になった。ナチス撮影の気圧を下げていって殺害する写真に衝撃を受けた。
 ほとんどの建物は取り払われて広い砂地になっていた。残っていた建物のベッドなどは余り傷ついていなかったが、ガイドはその建物が「めざし」と呼ばれていたことを説明した。寝る時に一人の人の頭の方に、次の人の足を、その次の人はその足の方に頭を並べられたからだという。
 以前NHKでホロコーストの特集があったとき、生き残った人々の遺伝子にまでその恐怖が組み込まれていると実例を挙げていた。正に人類に対する犯罪だ。
 皆、重苦しいのか無口だった。
夫はヘルメットの形をした石ころを拾ってきた。出口に「過去を顧みない者は過ちを繰り返す」と書いた看板があった。
 ドイツの小学生の一団が入ってきた。自国の負の遺産を学ぶのだと、感心するのも束の間、可愛い男の子が、歩きながらスパスパたばこを吸っているではないか!

* おにぎり
ダッハウから戻り、11:30から13:30まで皆と食事に行かないで三越の隣の庄屋で「あっ、おにぎりだ」とウインドを見て、思わず声に出してしまった。「おにぎだ、日本人はおにぎりだ!」
と店から出てきた日本人観光客も私らに向かって、ニコニコ顔の宣伝だ。
 おにぎり2つ、いなり2つ、たくあん4枚、しょうが少々を買い求めてホテルに戻り食す。お米の美味しいことといったら、それはもう、日本人でよかったあ、と二人でしきりに感動の連発!

* ヘレンキームゼー城
キーム湖に浮かぶ島に造られたルートヴィヒ二世の未完の宮殿だ。ベルサイユ宮殿を模倣したのだという。
 フェリーで湖を渡るときドイツ人が大勢乗船してきた。日差しが強く、そういう時は急に雨が降るので傘を持参してください、とガイドの高橋さんに言われた。
 ノイシュバンシュタイン城でもそうだったが、建物の未完成の部分がかえって勉強になった。ルートヴィヒ二世が城に架けた夢のはかなさを物語っている。しかし100年を経た今年、バイエルン州最大の観光収入源となっているそうだ。
 フェリー発着所まで、帰りは馬車に乗った。岡部さんは健脚なので歩きながら、私らに呼び掛けて写真を撮ろうとしたのに誰も見なかったそうで、プンプン。声が聞こえなかったのだ。

* BMW博物館
バスの中から、車好きにはたまらない魅力のBMW博物館が見えた。建物がシリンダー状のデザインになっている。

6.21-22(水―木)
6:30 朝食
7:00 MC
8:00 荷物だし
8:45 出発
11:45 ミュンヘン空港発 LH139
12:50 フランクフルト 着 
13:35 フランクフルト 発 LH710 成田に向かう
6月22日 7:45 成田空港 着
 ミュンヘン空港で、フランクフルト行きの乗客が並んでいる。
見ると、りんごとかキャンディ、牛乳などを小さな袋に一杯詰め込んでいた。私らも同じようにした。なるほど、合理的である。
機内サービスよりもセルフサービスの方が、はるかに効率的だ。

* 日本人なんかフン?
ヒルシュルホルンのトイレで手をかざせば、手拭きペーパーが降りてくるものが、あった。ドイツ人の男性と黒人っぽい女性とその子供連れがいた。その女性がマゴマゴしているので、手をセンサーにかざすことを教えてあげたが、ダンケ シェーンでもなかった。知らぬふり。
そういえば、昨年の旅行の時、パリの空港でも黒人の係官が無愛想だったことを思い出した。日本人なんかフンみたいなものがあるのかな?どこへいっても日本人だらけ。

森と湖の豊かな大地にある過去の建造物を、文明化される過程にありながら、伝統的な文化を擁護して、保持しようとのロマンチック街道の家々は一つの共通の文化と伝統に基づいている。
その共通性の基になっているのは、いうまでもなくキリスト教なのである。教会は勿論のこと、ホテルやレストラン、村の小さな公示版と至る所に十字架上のキリストの像が飾ってあるのだ。生けるキリストを信仰している私たちにしてみれば、大変な偶像だと思う。「キリスト教は残酷だから嫌だ」と飯田才知さんが言った。
なるほど、仏教の慈悲に対して、血を流されているキリストの像は残酷ではある。
 それが贖であり、アダムによってもたらされた血と罪を犯してきた全人類を贖うために、キリストはご自分の血を流して生贄となられたのである。
 ハイデルベルクのある教会の掲示板に「現代は放蕩息子だ」という表示があった。ドイツ語が読めたわけではなく、三枚の大きなパネルにその絵が描かれていたからである。有名なキリストのたとえ話で、二人の息子の次男が父に「遺産を生前贈与してくれ」と言って、それを手にするやいなや家を出ていき、街でその財産を湯水のように使い果たしたのである。挙句の果てに、食べるものにも事欠いて、豚の餌を食べるまでに落ちぶれた彼が、ようやく自分に立ち返って、父の元に戻ってくるという話だ。
 いなくなった弟が戻ってきたことを大歓迎する父に対して、兄は不満に思い、自分はずっと父に忠実だったのに、と反発する。
しかし弟は息子の資格を失った今、「僕の一人として働かせて下さい」といって戻ってきたのである。

参考資料

写真観光旅行ガイド「ドイツ連邦共和国」
ZIETHN-VERLAG  GMBH
「ドイツ・ロマンチック街道」         (株)新潮社
ブルーガイド・ワールド 「ドイツ」      実業の日本社
観光ガイド 「ハイデルベルク」 
観光ガイド 「ローテンブルグ」
美術出版 エドムント・フォン・ケーニッヒ社 
「ロマンチックなディンケルスビュール」
美術出版 エドムント:フォン・ケーニッヒ ハイデルベルク
「シュベービッシュ・ハル」
美術出版 エドムント・フォン・ケーニッヒ ハイデルベルク
「王城 ノイシュバンシュタイン」写真家W.キーンベルガー出版
「ヴィース」          写真家W.キーンベルガー出版
「王城ヘレンキームゼー」        HERPICH&SOHN

カラーガイド 「ロマンチック街道」
RAHMEL-VERLAG  Gmbh 
インスブルックへの道筋       オーストリア政府観光局


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