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2016.10.05 自分史・家族史「「 母 」一枚の写真風景」 投稿者:ふわふわの

時折り否応なく思い出される一枚の写真風景がある。
昭和37,38年。20代後半の母と就学前の私が芝生でお弁当を食べている。
何だか私は不満そうだ。当時住んでいた文京区の小石川植物園か東大の中庭だろうか。

私は母の口からこぼれる食べ物を「きたない」といい、母の箸には口をつけなかったのだそうだ。
母の口から食べ物がこぼれる理由を子供の私は知らなかった。

母は私を産んで間もなく脳腫瘍で入院し生死の境を彷徨った。
当時の最高の医療が受けられる病院をと父は奔走し東大病院で執刀してもらえることになったのだそうだ。東大病院で?そう、緊急を要し難しい手術であったことは想像に難くない。
母の太ももには大きな傷がある。腫瘍を取ったあとの空洞に太ももの肉を取って移植したという。母は顔面の半分が麻痺している。飲み物をストローで飲むのがあまり得意ではなく麻痺している方から漏れないように集中する。瞼も完全に閉じることがない。三叉神経が傷ついてしまったのかもしれないねと歳をとった私はつぶやく。

大きな代償を払ったが家族のために懸命に闘病しその後ずっと働き続けてくれた母。
私が最初で最後の子供。心無い言葉もたくさんぶつけきただろうに愛し続けてくれる母。
私はその母の口からこぼれる食べ物を幼心にも「きたない」と言ったのだ。

淡々とではあるが哀しそうに思い出話をする母の顔が脳裏から離れない。
傷つけてしまった思いは50年以上たった今も心を離れることはない。

私は5歳の自分に代わって母に詫びたい。できることなら50年前のこどもの自分の頭を下げさせて言いたい。
「ごめんね、お母さん 心ない子供で・・・」

  • 母のわが子に対する愛は海よりも深いと言うじゃないですか?もし、お母さんが悲しかったとしたら、わが子にそんな姿を見せなければならないことだったと思います。汚いと思うのは普通の子供の気持ちなのでお母さんは充分に理解されていると思います。 -- パシリーヌ 2016-10-05 (水) 07:38:03

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