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17030601岸野みさを

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2017.03.06 自分史・家族史「祖先探訪かぞいろは(2)名君 保科正之公の儀式」 投稿者:岸野みさを

 保科正之は江戸初期の三大名君の一人であり、他二人は水戸藩主 徳川光圀、岡山藩主 池田光政である。前回保科正之の生涯とその事績について「名君保科正之公の大河ドラマを作る会」から転載した。

 筆者の直系保科のFamily Tree の融合をやっていて、保科正之を検索してみた。すると、あっ、あった!シアトル神殿でSPは要請できます、となっていてSSの予約者の名前も表示されていた。
 父徳川秀忠、母神尾志津(カンノオ シズ)の儀式もSSを残して完了。祖父徳川家康、祖母関口瀬名の儀式も完了。曾祖父松平広忠、曾祖母於大の方の儀式も完了していた。関口瀬名のSPの儀式は今年(2017)1月20日東京神殿となっていた。

日本人の苗字は 既に絶えて使用していない苗字も含めると27万ほどあり、その苗字の由来は 約14種類あって地名からくるものが8割以上占めるという。他に職業から由来のもの、屋号から由来のものが上位を占める。

保科氏の系譜は信濃国高井郡若穂(現在の長野市若穂保科郷)が保科氏発祥の地であり、その祖は諏訪神社の神族の出であるという説(「信濃史源考」)、二つ目は清和源氏頼信(貞純親王孫)の子で信濃国の源氏、井上掃部介頼季(イノウエ ソウブノスケ ヨリスエ)を祖としている、という説がある。

ウキペデイアでは
諏訪大社の諏訪氏の係累にあたる血族を諏訪神族(諏訪神党とも)といい、信濃国には一門が多い。『太平記』には神家一党33氏の内の8番目に保科氏がある。(検索できるのは15家のみ)

諏訪氏の出自については諸説あるが、一般的には神武天皇(初代天皇)の子・神八井耳命(カムヤイミミノミコト、古事記にも日本書紀にも登場する)の子孫と言われている。ユダヤ人の言語学者故ヨセフ・アイデルバーグの書物ではカムヤイミミノミコトはヘブライ語の「カンヤヰ」であり、「エホバの祭司」を意味する。

以下、古樹紀之房間(こきぎのへや)樹童氏の「信濃の保科氏の系譜」を中心にしてまとめてみた。他の出典は文末に記載。

諏訪 有員(スワ アリカズ、御衣木祝有員、ミソギホウリ アリカズ)
865-死亡
諏訪大社の初代大祝(オオハフリ、ハフリとは羽振り(ハブリ)の義で、袖振りなどというのと同じように、起舞(キブ)して神を楽しましせる意味、はらうの義で、福を祈り災いを禳(ハラ)う義)を8歳の時任命された。この諏訪氏の系図では大国主の子建御名方神(タケミナカタノミコト、古事記の神話に登場する)を先祖としていて有員は桓武天皇の第5子という説がある。桓武天皇といえば平安京を造った天皇で、渡来支族最大最強の秦(ハタ)氏(シ)とその民10万人の治水技術、土木技術、養蚕、機織、等その財力と文化により平安京を造営したという。

諏訪 有員 夫人
870-死亡

諏訪 武方
890-死亡

諏訪 為員
915-死亡

諏訪 有盛
940-死亡

諏訪 盛長
965-死亡

諏訪 員頼
990-死亡

諏訪 頼平
1015-死亡

諏訪 頼信
1040-死亡

諏訪 為信
1065-死亡

諏訪 為仲
1091-死亡

諏訪 為盛
1116-死亡

諏訪 盛行
1141-死亡

(諏訪氏は神(シン、ミワ)氏とも呼んだ。大夫は神職の官吏の呼称)
神大夫盛行が初めて保科の地に住み、仁安の頃(1166~1168)に子の行遠が地名を姓として保科行遠を名乗り、その後行遠の子が源平の乱で戦死し、承安2年(1172)井上源氏の井上太郎忠長が保科太郎を名乗り保科氏を継ぐ等、諸説ある。(1)

『諏訪神氏系図』によれば、諏訪神家有信-為信-為仲-為盛-盛行-行遠(保科四郎大夫)-行直-行連と続き、行連の子範行が笠原弥次郎を称し、笠原氏の祖になったという。(2)

注:諸説なので(1)と(2)は矛盾している。

●保科又は諏訪 行遠(保科四郎大夫行遠)
1172-死亡

保科行直
1199‐

保科行連

保科範行 笠原弥次郎を称し笠原氏の祖になる。⇒

●井上源氏忠長が保科太郎を名乗る
1172‐

保科長直

保科長時

保科光利

保科正知

保科正利
  ‐1506

保科正則(マサノリ。弾正忠、築後守)
  ‐1591
……信濃国高井郡保科に生まれ、これにより保科(ほしな)を称号とした説もある。長亨年間(1487-88)に村上顕国に攻められ、父保科正利(永正3年/1506没)と共に一時伊那郡高遠の別邑に退く。藤沢城を居とし、高遠氏(保科氏と同じく諏訪祝系)に従い藤沢の代官となる。天正19年(1591)9月6日没。

東大史料編纂所所蔵の『諸家系図』でも、その第21冊に所収の「保科」系図では、正則を初祖としてあげて、「信州井上掃部介頼秀の末葉」とのみ記している

保科正俊(マサトシ)
1510‐1592
保科正則の子 戦国の三弾正の一人 生没年:永正6年(1509年) - 文禄2年(1593年)
特に槍に優れた使い手であったため、「戦国の三弾正」に数えられ、高坂昌信の「逃げ弾正」、真田幸隆の「攻め弾正」に対して「槍弾正」と称された[1]。元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦では高遠城守備を命じられ、信玄から28か条の印判を与えられている[2]。

保科正直(マサナオ)
1542‐1601
保科正俊の子 
生没年:天文11年(1542年) - 慶長6年9月29日(1601年10月24日)
正室 徳川家康公異父妹久松多却姫

保科正光(マサミツ)
1561‐1631
保科正直の長男 多胡藩藩主 高遠藩初代藩主 
生没年:1561年(永禄4年) - 1631年10月31日(寛永8年10月7日) 没歳:71歳 保科氏では初めて大名になった。

保科又徳川正之(マサユキ)
1611‐1673
徳川秀忠の4男 
母:浄光院 保科正光の養子 
会津藩初代藩主 
生没年:慶長16年5月7日(1611年6月17日)‐寛文12年12月18日(1673年2月4日) 没年:63歳

保科正経 (ホシナ マサツネ)
1647‐1681
保科正之の四男 母:於万の方 会津藩2代藩主 生没年:正保3年12月27日(1647年2月1日) - 天和元年10月3日(1681年11月12日) 没歳:36歳

保科又は松平正容 (ホシナ 又は マツダイラ マサカタ)
1669‐1731
保科正経の養子 会津藩3代藩主 生没年:寛文9年1月29日(1669年3月1日) - 享保16年9月10日(1731年10月10日)
⇒●会津松平藩

一方、正之の入嗣により世子の座を廃された正貞(正光の実弟)は、後に幕臣に取り立てられたために別家を興し、上総国飯野藩主として保科氏の血統を残し現在に至る。

保科正貞 (ホシナ マササダ)
1588‐1661
保科正直の三男 正光の実弟 母:長元院(多劫) 飯野藩初代藩主 生没年:天正16年5月21日(1588年6月14日) - 寛文元年11月1日(1661年12月22日) 没歳:74歳

●歴代飯野藩主
­保科正貞(ホシナ マササダ)1588-1661 |
­保科正景(〃   マサカゲ)1661-1686 |
­保科正賢(〃   マサカタ)1686-1714 |
­保科正殷(〃   マサタカ)1715-1718 |
­保科正寿(〃   マサヒサ)1718-1739 |
­保科正富(〃   マサトミ)1739-1770 |
­保科正率(〃   マサノリ)1770-1802 |
­保科正徳(〃   マサヨシ)1802-1817 |
­保科正丕(〃   マサモト)1817-1848 丨
­保科正益(〃   マサアリ)1848-1871 |
­廃藩置県

●現在の23代保科氏に至る。

出典

古樹紀之房間(こきぎのへや)樹童氏
信濃の保科氏の系譜
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hoshina1.htm

保科氏
http://www.geocities.jp/keizujp2011/hosina.html

信濃中世武家伝 田中豊茂 著
シリーズ藩物語 高遠藩 長谷川正次 著
日本書紀と日本語のユダヤ起源 ヨセフ・アイデルバーグ 著
失われた原始キリスト教徒 秦氏の謎 飛鳥昭雄・三神たける 共著
Family Tree

(続く)


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