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2017.08.22 自分史・家族史「宮沢賢治の親友保阪嘉内から学ぶ」 投稿者:保阪三郎

甲州路より転載

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山梨県司法書士会会報 2017.8 No.172
 山梨県司法書士会
(一)
韮崎市内の経営者早朝勉強会で「いまに生きる宮沢賢治と保阪嘉内」について、地元の宮 沢賢治アザリア記念会事務局長の向山三樹氏から学んだ。 宮沢賢治については「雨ニモマケズ・・」ではじまる詩の作者である程度しかしらず、「銀 河鉄道の夜」、「注文の多い料理店」等の作品名を知るのは後のことであった。 保阪嘉内の名前を宮沢賢治の友人で、文通仲間であることを知ったのは昭和58、9年頃の 40歳のことであった。
その頃、東京・日本橋の高島屋で宮沢賢治展があり、偶然にもそこへ足を運んだ。陳列さ れたウィンドケースの中のハガキに「甲斐国北巨摩郡駒井村 保阪嘉内宛」を発見した。「同 じ氏保阪、同じ先祖の地駒井村、先祖の墓を見守ってくれる親戚、墓参りに行く地韮崎」等々 を連想して、特別の親しみと興味を覚えた。
帰宅後、東京から韮崎市駒井の親戚へ電話して「わが家の親戚筋か」聞いてみた。 「そのご子息はうちの親戚ではないが、家はうちの裏側で、母親は高齢であるが地元の婦人 会の会長として活躍している。 長男は地元の病院の医者を二男は地元の高校の先生をして いる」との話をお聞きした。
当時系図に興味をもち、自分の先祖を探求し整理していたので、同人の名があるか注目し たが800人近い先祖・親族の中には見当たらなかった。
その後、韮崎の親戚と会った折に、話題になった。宮沢賢治と保阪嘉内の研究が進み、マ スコミ、雑誌社の方が親戚へ訪ねてくる回数も多くなり、「何でもいいから教えてくれ」と 取材を受けるが困惑しているとの話を聞いた。
(二)
墓は、 明治時代の水害で駒井地区の墓地が流されてしまい塩川筋から七里が岩の上に集 団で移転して今日に至っている。わが家の先祖の墓もその中にある。
保阪嘉内の墓はわが先祖の墓とわずか4,5メートルの距離であり、親戚の墓とは通路を 隔てて隣り合わせである。
この親戚は私の曾祖父の兄弟が婿養子となって現在の藤井町駒井に住む唯一の親戚でお 墓の管理をお願いしていた。
私の兄弟はみな東京、横浜に住んでいるので、墓の管理はできない状態であった。また、 私は富士山と八ヶ岳が同時に裾を拡げた雄大に観える韮崎の地を気に入り韮崎の地へ将来 のためにとマイホームを建て、兄姉の墓参りの際の宿になるようにと考えていた。最近引越 して田舎生活を満喫するとともに、よく墓参りをするようになった。
両名の研究も進む中で、墓参りする方、足を運ぶ方も多くなり、お墓も立派に修復されて、 石碑には和歌、俳句等が刻まれている。それ以来、墓参りにいくと気に留めるところとなっ た。 ちなみに私宅の墓には旧い先祖の屋敷神そして祀られた石碑の数々と両親が眠ってい る。
父は旧国鉄職員であったので、列車の通る音がするところへ眠りたいとの希望どおりになっている。中腹を通る中央線上下の列車の音が響いてくる。本望だろう。
周辺は西に鳳凰三山がせまり、北に八ヶ岳が木立の間から見え、眼下に藤井の田園が広が り、東に芽ケ岳、金ケ岳が位置する環境である。春には鶯の声も心地よい、桜の満開も格別 な風情を感じる。
(三)
今回あらたに知ったことは中学校が甲府中学(現甲府一高)の同級生であること、して見 ると私の大先輩である。
本人が影響を受けた当時の校長大島正健校長は札幌農学校の1期生として、 クラーク博 士から指導を受けた方であるという。
思えば、母校の玄関にはクラーク博士の「青年よ大志を抱け」の文面が飾られていた記憶 がある。この開拓者精神に私も培われて、大切にしてきた 1 人で不思議な縁である。
洪水で荒れ果てた故郷の田畑を豊かな農村にしたいと「花園農村」の理想をもって盛岡高 等農学校への進学であったという。学友仲間と同人雑誌を発行して、文芸作品を切磋琢磨し て発表していたところ、その途上で危険思想の持主とのレッテルを貼られ除名処分になり退 学を余儀なくされた。
現代では思想の自由、表現の自由等が憲法で保障されているが当時の時代背景からこのこ とは許されなかったのだろう。明らかに不合理であるが・・。惜しまれてならない。
文通の手紙の数は73通にのぼる。 当時は電話も十分でない時代であったろうからその 都度、手紙を書いて意思疎通を図っていたのだろうと推測できる。
それが100年の歳月を経て続く友情になって多くの人の交流が実現し、 これからも続 くことにただ畏敬の念を抱かずにはいられない。例えば山梨県と岩手県の交流、記念樹の交 換、各地のイベント開催、岩手大学創立60周年記念行事には当時の学友4人のご子族が一 同に顔をそとえた等である。
宮沢賢治は山梨に来たことはないが嘉内が送る手紙、スケッチから彼の作品のモデルになっている、ヒントにしている節が見受けられるという。
例えば「銀河鉄道の夜」については鳳凰三山の上空を流れるハレー彗星、七里ガ岩の中腹 を走る中央線の列車の情景から、また、「風の又三郎」では八ヶ岳おろしがヒントになって いるように自分の思いを創作に結び付けていることは素晴らしい発想であると敬服してし まう。
 この度は改めて郷土の歴史を彩どり、その輝きを連綿と放つ保阪嘉内の理解を深める機会となったことは幸運のことであった。

  • 宮沢賢治「雨ニモマケズ~」。ある時、アメリカ人の伝道部長が日本に来て開口一番この詩を読み上げました。一気に聴衆の心を掴んだことが思い出されます。宮沢賢治と保阪嘉内の友情を穀粒にまで繋げて頂きありがとうございます。郷土の歴史に今も息づく偉人たちは、あちらで大いに喜ばれておられることでしょう。 -- 岸野みさを 2017-08-22 (火) 15:31:49

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