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2018.07.11 自分史・家族史「儀式と聖約ー聖餐会のお話」 投稿者:岸野みさを

儀式と聖約        2018.7.8 聖餐会のお話

ユダヤの最高評議会サンヒドリンの議員であり秀でた教師のニコデモは夜こっそりと
イエスに会いに行きました。
「先生、あなたは神から来られた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがおやりになっているようなしるしは誰にもできないからです」
イエスは言われました。
「よくよくあなたに言っておく。人は誰でも新しく生まれなければ神の国を見ることができない」
ニコデモは言いました。
「人は歳をとってから、どうやって生まれることができるのでしょう。どうやって母の胎に戻ることができるのでしょう」
イエスは言いました。
「よくよくあなたに言っておく。人は誰でも水と霊から新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」(ヨハネ3:1;7:50)

 バプテスマはキリストの死、埋葬、復活の象徴です。罪の赦しのためのバプテスマについてパウロは17回も言及しており、真心からの悔い改めにより、古き人はキリストの死に預かるバプテスマによって罪ある自分を水に沈めて葬り去り、新たな霊の人として再び生まれます。

教義と聖約20:37ではもう少し厳しく述べられています。

「さらにまた、バプテスマの様式に関して教会に与えられた戒は、次のとおりである。すなわち、神の前にへりくだって、バプテスマを受けたいと願い、打ち砕かれた心と悔いる霊をもって進み出て、自分のすべての罪を心から悔改らためたことと、最後までイエス・キリストに仕える決心をして進んでイエス・キリストの名を受うけることとを教会員の前に証明し、また自分の罪の赦しを得るようにキリストの御霊を受けたことをその行いによってまことに明らかにする人は皆、バプテスマによってキリストの教会に受け入れられる」

バプテスマはキリストのみ名を身に受けることを誓約し、モーサヤが言う通り「神の御心を行うという聖約を交わした証拠になります。(モーサヤ18:13)

私は54年前の11月8日に吉祥寺の教会でバプテスマを受けました。その意味をよく分かっていたわけではありませんが、水から上がった時、それまでの人生で経験したことのない、心身がさっぱりと清められた清冽なものを感じました。そして確かに霊として新しく誕生したことを感じました。

先ほどの聖餐の儀式ではキリストの体の記念にパンを頂き、流された血の記念に水を頂きました。これはバプテスマの聖約を新たにするためにあります。儀式を受けることが聖約を交わすことになりますので儀式と聖約は分離したものではなく一体化して完結しています。

アダムの時代から犠牲の律法が与えられ、アダムは理由を知らず主に命じられた通りに
動物の初子を犠牲として捧げていました。それは、キリストが全人類の罪の贖いの為に犠牲となることの予表でした。(モーセ5:5)予表とは予め表す事で、この動物の血を流す犠牲はキリストの死と復活によって終わりを告げました。(アルマ34:13-14)アミュレクも同じ原則を教えました。「この大いなる最後の犠牲となるのが神の御子である」と。(アルマ34:14)

モーセの律法はキリストの来臨の為に与えられ、「世の初めから神が人に与えてこられたすべてのものはキリストの予型である」(第2ニーファイ11:4)つまり、前もってキリストを現わしていて、証しているのです。

信仰箇条第3には「私たちはキリストの贖罪により、すべての人類は福音の律法と儀式に従うことにより救われ得ると信じる」のですから、救いの計画の最初の儀式であるバプテスマについてお話しました。

儀式は他にも病人の祝福、幼児の祝福、聖霊の授与、神権の授与、神殿の儀式、新しくかつ永遠の聖約による結婚があります。

ニコデモはその後改宗したのか記録されていませんが、キリストの不当な裁判の時「我々の律法では、まず、その人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ裁くことができない」(ヨハネ7:50-52)とキリストを擁護し、十字架に架けられたとき、乳香と没薬を100斤(32キロ220g)ほど持っていき、ユダヤ人の習慣に従って他の人たちと一緒にキリストを埋葬しました。(ヨハネ19:39-40)


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