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18071201工藤駿一

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2018.07.12 穀粒記者レポート・『建築宣教師の足跡 第5回』投稿者:工藤駿一

第3章 建築宣教師制度による建築
建築宣教師の面接開始
 この建築計画が発表されて間もなく、各支部で建築宣教師の面接が各支部長(現:支部会長)により開始されました。正餐会で発表されてから、最初は建築宣教師になりたい希望者をつのっていました、があまり希望者はなかったようでした。なにせ二年半(この期間は当時の専任伝道宣教師と同じ期間でした。)の専任であるため、建築宣教師としてフルタイムで働ける年齢層は、その時すでに学生だったり、社会人だったりで、なかなかその生活を犠牲にしてまでは、当時の社会情勢からもまた各人の家庭生活状況(当時、モルモン家庭は殆ど無く家族の中で自分一人が会員であった)からしても、もう一つ勇気が出なかったのだと思います。その上建築宣教師の規則や生活条件などまだ決められてなかったと云うことが更に輪をかけた訳で、当時の各支部長も大変だったことでしょう。私の場合には、当時東京北支部の支部長であられた故福田濃(アツシ)兄弟で(現在武蔵野ステークひばりヶ丘ワードの福田八重子姉妹のご主人で、福田眞祝福師の実兄。)です。彼の面接を受けた時、なぜか私は「はい、やります」と答えていたのです。しかしそれからが大変でした。当時私は大学受験を控えておりましたので、九州の両親にそのことを書きました。当然ものすごい反対で、ほとんど勘当同然でした。しかし私は両親とは意見が合いませんでしたので、私も意地になっていたし、このことでなんとか受験から逃れたいという気持ちもどこかにあったのかもしれません。私は親の意見を退けました。父は諦めて最後に私に言いました。「お前がそんなに言い張るのなら、自分自信の人生を生きて行け、しかし、決して後悔だけはするな。」ということでした。そして私は自分の意思で建築宣教師になりました。この時には私はまだ会員になって、間もない頃でした。神様やイエス・キリストについてはほとんど何も知らない状態でした。けれども他の教会員の方々が証詞会で、あのように「私は神を知っています。イエスキリストを知っています。イエスは確かに私たちの救い主で、今もなお生きて私たちを導き賜うことを知っています。また、ジョセフ・スミスが末日の預言者であることを知っています。」というような強い証詞を持ってみたいものだと考えるようになりました。両親の言葉に反対してこの世の人生よりも主のみ業を選んだので、どうしてもこの真実な神の存在を知ることは私にとって最重要なことだったのです(教義と聖約53:2参照)。この世は二つに一つ、つまりそのことが真実か、そうでないかです。もし真実なら私は自分を変えなければならないし、そうでなければ、自分の考えで思うように生きることもできると思っていました。私と同じように、この時に建築宣教師として出て召された兄弟たちは皆それぞれ自分の立場や境遇と戦った末に、建築宣教師を選択したのであります。
 しかしそのような状況でも、やがて東京北支部から二人(大橋兄弟と筆者)、東京西支部から二人(石川兄弟と松島兄弟)、東京南支部から一人(チャ−ルス田畑兄弟)、横浜支部から一人(小泉兄弟)と、合計6人の建築宣教師希望者が現れ、それぞれの支部長から面接を受けて、その結果この6人が日本で最初の予備建築宣教師(予備というのは、この時点ではまだ正式な任命は受けていなかったからです。)として教会堂建築に従事することになり、この時点ではまだ自分の居住しているところから現場に通っていました。それは日本で最初の教会堂建築が予定されている東京北支部の鍬入れ式がまだ済んでいない、暑い真夏の1962年の8月の事でした。この時既に北支部の現場では工事が始まりました。まだ道具も揃ってなくて、ツルハシとシャベル、玄能しかなく、猛暑の中、基礎工事のために土を掘り始めました。作業服もなく自分の持っている普段着を作業着に変えて労働しました。最初は全く個人の責任で働きました。しかしそんな中にあっても誰も文句を言うことなくひたすら現場監督の指示に従って、作業していました。それから約3ヶ月後に建築宣教師の宿舎が完成したのです。なぜそんなに遅れてしまったかといえば、当時まだ建築宣教師の宿舎となるところは、東京西支部(青山)の敷地の奥に大きな倉庫がありました。そこを改装して建築宣教師の宿舎にすることでしたので、その改装が遅れ、同時に建築宣教師の身の回りのお世話をしてくださる方が決まっていなかったことのためでした。しかしすでに建築事務所と建築総監督と建築現場監督のお二方とそのご家族がアメリカからすでに日本に着任されていましたので、すぐにでも働くことができました。最初に来日したのは東京西支部の現場監督、バッド・ヘールス兄弟で、代々木上原付近に家を準備されていました。

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その後すぐに東京北支部の建築現場監督としてカトウィック兄弟が着任され、現場近くにその家が準備されてありました。ですが最初工事を始めた時はまだ東京北支部の建築現場しか工事ができる状態ではなかったので、二人の現場監督が一緒にしばらく働いていました。この時には東京と横浜から、すでに6人の予備建築宣教師が現場で彼らの指示のもとで働いておりました。
 建築事務所は、当時表参道と青山通りの交差点に近いところに大きな日本庭園の整ったお屋敷がありその中にありました。そこは東京西支部の教会でした。それ以前は吉祥寺に東京西支部があり、吉祥寺にあるカトリック系の幼稚園をお借りして集会を開いておりました。しかし、吉祥寺に東京西支部の土地を買ってありましたので、工事が始まる1962年頃になって、西支部を青山に移し1964年の教会堂完成まで青山の建物を使用していました。東京西支部が吉祥寺に引越ししてから、その青山の建物は東京中央支部が使用することになりました。東京中央支部は本来渋谷の並木橋にありましたが、ここも大きなお屋敷だったのですが、何しろすぐ近くに野外競馬場があり、日曜日ごとに多くの競馬愛好者が集まり騒いでおりましたので、環境的には最悪のところでした。そこでそこは売却しました。そして東京中央支部は、前述の通り、青山に移りました。

最初の建築宣教師が正式に按手任命される
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 1962年11月6日の夜、アンダーセン伝道部長、吉野第一副伝道部長、ヘールズ本部長、カラマ会計役の出席にて次の兄弟姉妹が正式に建築宣教師に按手任命されました。
     

 奈良冨士哉、奈良源子(ご夫婦は、建築宣教師の宿舎維持と食事をお世話してくださる兄弟姉妹)、石川善次郎(西)、大橋正弘(北)、工藤駿一(著者)(北)、小泉裕功(横浜)、松島烈偉(西)、チャールズ・田畑(南)、これらの兄弟姉妹達が日本で最初の建築宣教師として任命され、東京北支部の現場で本格的に働き始めました。

建築宣教師について
 ここで建築宣教師について少し説明しておきましょう。最初は勤労奉仕宣教師叉は労働宣教師と呼ばれていました。なぜなら、2年の間、学業や仕事を中断叉は断念して無償で労働力を提供するためにこの様に呼ばれました。確かに無償で100%教会堂建築の為に働く訳ですから、この呼び方は正しいのではないかと思います。英語ではLaber Missionaryとよばれ、これは労働する宣教師と云う意味ですが、労働奉仕ですので、しばらくの間は、『勤労奉仕宣教師』とか、またそのまま『労働宣教師』とか呼ばれていたのですが、やがて建物を立てることによって伝道出来るのだから建築宣教師と呼ばれる様になり、この呼び方に落ち着いたようです。当然の事ながら、建築宣教師と云うからには明確な使命がありました。すなわち、教会堂建築と云う使命です。しかし、これだけではありません。もう一つ宣教師と云う使命も実は持っていたのです。従って、規則も伝道宣教師と全く同じものでした。とは云っても但し書きが付いている分、例えば、建築宣教師は教会の主催するダンスパーティーに出席出来、ダンスも出来るとか、姉妹との手紙のやり取りも度を超さなければ良いなど、伝道宣教師とは幾分違うかなと思われます。それから全く伝道宣教師と違う点は、召されるさいには必ずしもメルキゼデク神権の長老でなくても良かったのです。私は執事の時、建築宣教師に任命されました。この建築宣教師という役職そのものは、アロン神権の役職のようでもあり、補助組織の役職のようでもありました。なぜなら建築宣教師に任命されたのであり、聖任されたわけではありません。しかし、少なくとも教会堂を建築するのですから、神権者でなくてはならず、最低限アロン神権を受けていなくてはなりませんでした。私はその時すでに18歳だったのですが、アロン神権の執事でした。今とは大分違っていました。当時は年齢に関係なくバプテスマを受けた兄弟達は、半年たつと、アロン神権の執事の面接を受け、さらに数ヶ月すると教師、さらに数ヶ月で祭司の面接を受けふさわしければそれらの神権の職に聖任され、長老になるにはかなりの月日が必要でした。従って神権に対する感じ方が現代とは大分違っておりました。現在は18歳以上の男性新会員はすぐにアロン神権を与えられその祭司の職に聖任されますが、当時は、たとえ18歳以上の大人の新会員でもしっかりとアロン神権執事から始まり、教師、祭司へと進んでおりました。
 さて建築宣教師の建築の使命は分かっても、宣教師としての使命は何処にあるのかと思われる人があるかも知れませんが、実は多くの人々に伝道をしていたのです。建築宣教師が建築をしていると、通りすがりの人々が「これは何の工事ですか?」と声を掛けてくれたり、現場に来て話をしたり、また近所の人が実際に仕事を手伝って行ったりする。こんな時建築宣教師は教会の名称やどんな人達がどんなふうにこの建築をやっているかを説明しますので、これはすでに伝道している事と同じだったのです。自然の会話の中で伝道をしていたのです。この会話から、実際多くの求道者が現場から生まれ、改宗していったのです。と言いますのも、この時代は建築現場の周りに柵を設けて封鎖をしていなかったのです。ですから自由に誰でも一般の方が入って来られたのです。現在は安全対策上厳しいですが、当時の建築法では教会堂は一般家屋と同じ様に考えられていたために、その様な状態だったと思われます。

 ところで現場で働く建築宣教師の生活は毎日きちんとスケジュールが決められていましたが、建築現場の進行状況によっては、宿舎に帰る時間が遅くなったりすることもあります。特に床にコンクリを打つ時などはその傾向がありました。どうしても仕上げをしてしまわないと、コンクリが固まって、次の日までその仕上げをのばせないからです。徹夜作業になったことも多々あります。そのほか会員たちのために夜間作業をすることも出てきました。これはのちに書くつもりですが、建築資金獲得のためでした。

建築宣教師の食事
 最初の頃、東京北(現:中野ワード)と西支部(現:吉祥寺ワード)の教会堂建築に携わっている時には、朝は白米のご飯とみそ汁、漬物、納豆、卵。昼は始めの何ヶ月かは宿舎で弁当を作ってくれたのですが、なにしろ食欲旺盛な若者達と建築宣教師が増えてきたことによりで御飯が足りませんそこで、炊飯器を持ち込みご飯だけはお変わりが出来ましたが、おかずは大豆の昆布煮二号缶一缶だけでした。育ちだかりの若い建築宣教師にとって内容的には不十分であったのですが、その時には誰も文句を言わずに心から感謝の気持ちで頂いておりました。肉体労働なのでとても美味しく頂きました。
 当初建築宣教師達の身の回りのお世話をして下さったのは、日本に於ける教会史にその名を残す奈良冨士哉・源子兄姉でした。奈良兄弟も姉妹も大変温厚な方々で、奈良兄弟はお声がとても高く響く声でした。建築宣教師の談らんの時、決まって詩吟を朗々と吟じてくださり、我々建築宣教師達にもご教示下さいました。一方奈良姉妹の方は、食事を作ってくださいましたが、普通の家庭の料理と量が違うので、大変だったと思います。すでにこの時兄弟は定年退職されておりましたので、ご年齢も50歳を数年過ぎておられたと思います。しかし奈良姉妹の裁量によって、建築宣教師達が夕食はたっぷり食べられるようにと「チャプスイ」を大鍋にいっぱい作ってくれました。特に奈良姉妹の作られる「チャプスイ」はとても美味しく、なんでもお聞きしたところによると以前中国の満州に転勤されしばらく住んでおられた時に作り方を知ったのが「チャプスイ」だったそうです。その作ってくださる量が大量だったため、若き建築宣教師達の食欲を十分に満足させてくれました。あの奈良兄弟姉妹もすでに故人となられ、今頃はパラダイスでお二人して本当の幸福な時を過ごされておられることでしょう。お二人には我々一同心から感謝致して居ります。あの味を忘れることはないでしょう。
 その後しばらくしてから、昼食は現場の近くの会員の家庭に行って食べるようになりました。毎日お世話して下さった会員の各御家庭に本当に心から感謝致しております。私事ながら雨宮きん姉妹の御家族には特に感謝致します。毎日数人の食べ盛りの建築宣教師達が昼食時になると作業着のままで一斉にお邪魔をしておりました。お二人の娘(明子姉妹、郁子姉妹)さん達も本当に嫌な顔一つされずに、食事を用意して下さいました。今考えると本当に大変だったことでしょう。建築宣教師のむさ苦しい若い男性達が、昼になると数人ドカドカと上がり込み食事をするのですから、特に雨宮ご家族のように雨宮きん姉妹と娘さんお二人といったように女性ばかりのところでは、我々建築宣教師でなければ、嫌厭されていたことでしょう。ほんとうに有難うございました。感謝を仕切れないほどです。雨宮きん姉妹はすでに他界されており、お二人の娘さんはそれぞれ素晴らしい兄弟と結婚されて素晴らしいご家庭を築かれておられます。お二人の雨宮きん姉妹のお嬢様ご家庭に豊かなみ恵みと祝福が注がれますように、私事ながらお祈り申し上げます。ありがとうございました。

 さて建築が中央から地方に及ぶに連れて、各支部では建築宣教師の食事や生活もきちんと整えられました。とくに食事や洗濯といったことが地方の支部では充実され、教会堂建築の原動力がしっかりと確保されていました。それには各支部の扶助教会の姉妹達の大変な努力と信仰の賜物によるものがあったことを、深く感謝を申し上げます。この件に関しましては後に記載いたします。
         

画像の説明
(写1)の説明:これは1963年元日に、東京西支部その後、東京中央支部でした。JR原宿駅からまっすぐに青山通り(国道246)に向かう道路を下り、そして登り切る右側に現在はこの場所に「ハナエモリビル」が建っている所で、表参道の一等地にある豪邸を教会が購入して教会として使用していたのです。この庭は大きな日本庭園になっていて、その片隅に建築宣教師の寝蔵が倉庫を改装して造られていた。その倉庫の前にあった中庭で写した写真です。前列左(着席)から、カラマ兄弟(ハワイ)、カラマ姉妹(ハワイ)、奈良冨士哉兄弟、奈良源子姉妹。後列左から、南沢輝幸、石川善次郎、松島烈偉様、チャールズ田畑、斉藤暁、ライマナ長老(ハワイ)、山田利昭、大橋正弘、小泉裕功、工藤駿一(筆者)、の建築宣教師の皆さんです。
*1963年『聖徒の道2月号』の裏表紙には、東京中央支部は渋谷区八幡道1−34戸なっていて、東京西支部は、港区青山北町1−7−19となっているが、翌月の『聖徒の道3月号』裏表紙には、東京中央支部と東京西支部とは同じ住所になっています。つまり港区青山北町1−7−19と記載されております。これによって当時、東京中央支部と東京西支部とは表参道の青山北町の建物で、2部制で使用しておりました。とても大きな屋敷で部屋数も多く、広い日本庭園のある邸宅でした。東京中央支部はその後分散してその場所は売りに出され、2011年まで「ハナエモリビル」でしたが、現在は2014年頃から「オーク表参道」となっております。東京西支部が中央支部と別れたのは、1964年の西支部教会堂完成日からです。この日吉祥寺に正式に変更になりました。
つづく

  • この膨大な記録はご自身の記録が元になっているのですか?記憶だけで執筆されているのであれば、それは神対応といえるほど驚異的なものを感じます。チャプスイは美味しかったのでしょうね。中華丼みたいなものらしいですね。目的に向かって信仰と力を一つにして成功させた貴重な神の業でしたね。 -- 岸野みさを 2018-07-14 (土) 21:23:42

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