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2019.08.24 自分史・家族史「第一回帰国~管理所長のことども」 投稿者:高木 冨五郎

我が生涯 冷夢庵 (4)

第 一 回 帰 国

いつ帰国できるだろう? ″というのが唯一の話題であった。終戦後の内地の情勢が一向に判らない。帰国しても引揚者たちの生活できる余地があるかしらとの不安はあったが矢張りどんなみじめな風貌に変っていても祖国へ帰りたいのは一同の願望であった。それが十二月九日突如として「第一回帰国」が開始されるとの報道が本部へ来たのには。びっくりした。しかしこの朗報が伝わると集結所は湧き返るような騒ぎであったが「第一回帰国者は単身の男子に限る」との但書があったのにはがっかりした。何しろ集結所で最も頼みとされるのは単身男子の労力であるから、其の労力を引抜かれるのは大きな痛手であるが至上命令とあっては拒みようもない。結局十二月九日午前八時、凍てつくような寒気の中を背負われるだけの荷物を背にして単身男子八百四十四名が初めて西苑分会から祖国へ向けて帰って行った。帰国するものの喜色、送るものの憂色はすべての理由を超越して集結所内の空気を異常におののかせる風景を展開した。その後まもなく北京在留者中からの希望者と、奥地から移動して来たもの及び現地除隊となった兵隊たちを合わせて六百人ほどが新たに西苑へ集結したので、西苑村は依然として一万二千人の総勢でざわめきをつづけていたものである。

集 結 生 活 窮 す

単身男子の帰国後、第二回帰国はいつになるか皆目判らぬまま此の年も暮れが追って来た。各自が持参して来た快ろもだんだん貧弱になって来る。準備した食糧も燃料も残り少なになる。それでも現金の貯えある者は西苑や万寿山の中国商店から必要品を購入できたが貯えの少ない人は救恤班へ申出るよりも持参の物資を売って「筍生活」をやる方法を選ぶより他に手がなくなった。
そこで必然的に生れたのが第一区の裏通りに現われた露店である。露店には衣類、装身具、銀細工もの、支那陶磁器など、こればっかりは祖国へ持ち帰るべく秘蔵した品々が天幕張りの露店へずらりと並んだ。比較的貯えの多かった連中は夫婦揃って好みの品を買漁って行く。露店は思わざる繁昌を極めたが之れを見ると直ぐ其の傍に焼芋屋、しるこ屋、餃子屋が軒を並べて競争を始めた。酒類の販売だけは禁止していたので酔払いたちの間違いが起らなかったが、ドサクサに紛れて「こそどろ」が出没するようになって警務班は思わぬところで多忙になったのは皮肉である。分会直営の豆腐工場、味噌工場は好評を博した。銭湯も二か所で経営したが其れに要する燃料補給には一苦労であった。苦労と言えば食糧の補給である。各自持参の食糧が残り少ないので日本の軍官に補給方を懇請したが思うにまかせない。時々支那側から配給があるが極めて少量で、しかも小麦粉の如きは赤い色で中には相当多量の豚毛が混入しているひどいものであった。十二月初旬北支軍からの通達で「電信二二連隊片山部隊が引揚げるので残余食糧を西苑分会へ貸与す」との許可状が来た。そこで男子有志を徴発して受取りに行って見ると支那軍憲が其の内若干をくすねてあって、分会が受取っだのは白麺二十五トン、雑穀四十五トソであった。この外精華園の衛生部隊から多量の医薬品の貸与をうけ、途中略奪されないよう戦々競々として受取って来たことも忘れられない。

管 理 所 長 の ことども

邵克励警親は日本の明治大学出身、日本語に流暢で親切らしく見えたが北京内二区警察署長だったので既知の居留民も大勢いた。営内を巡視して戸別に状況観察をやるらしく「何某の部屋には素晴らしいラジオがある、管理所に貸してくれないか」と言って来る。
「何某の処には日本婦人服のキレイなのがあった」と意味あり気に語る。「分会長さん、第〇区第〇保に女たちが三味線をひいて騒いでいたがもう少し静かにさせて下さい。どうですか、あの人たちは退屈なんでしょうから時々管理所へ派遣してお茶のサービスを手伝って貰えないか」と婉曲に要求する。しかし「日本へ帰るまではみんな健康に……」などとしんみり話すこともある。
集結生活に理解ある所長は各区内を巡視して生活困窮者の激増する傾向をながめて時々私の部屋を訪ねて善後策を相談してゆくこともあった。相当融通性も豊かであった。年末のことである。私が所長室を訪ねて「私たちは集結者で謹慎を旨とするが当然だが、日本人の習慣で正月気分でありたい。どうか三か日だけは一同に飲酒を許して貰えないか」と申出たところ、「その習慣はわかる、しかし酔漢が他人に迷惑をかけることは禁ずる。其の取締りに警務班が責任を持つならよろしい」と承諾してくれた。これなどは邵所長の知日意志の現われである。二月末になって集結所内における勤務ぶりを批判されて北京へ転任となったが退任に当って彼は「自分としてはこれより外、日本人を扱う方法を知らなかったと撫然たる面持ちをしたのが印象に残る。
クリスマスの前日のことである。私は懐中に百万円と五十万円の金包み二個をしのぼせて所長室を訪問した。私の口上は「居留民一万二千人が西苑へ集結してから約二か月になる。この間、所長始め所員諸君に大変親切に扱われていることを感謝する。出来れば万寿山あたりで一席設けて分会のスタッフだちと歓談を願いたいのだが現在の境遇上それは遠慮せねばなるまい。それで其の費用を分担する意味で持参したから受取って貰いたい」と正面切って堂々と述べ立てた。邵所長はびっくりしたように聴いていたが、いんぎんに「口上の主旨は了解する。しかし高木さんには予ねてから所員一同が"三民主義講義"を受けているので感謝している。機会あれば私もあなたと一席懇談したいと思っていたのです」と如才なく答えて私の差出した紙包を二個とも于早く受取って机の曳出しへ蔵い込んだものである。
二個のうち一個が所員たちに分配されたかどうかは聞き漏らした。


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