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19082405高木 冨五郎

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2019.08.24 自分史・家族史「暴漢に襲わる~思想と治安」 投稿者:高木 冨五郎

我が生涯 冷夢庵 (5)

集結生活も三か月になると其の日常に落着きが出来て西苑も村らしくなって来た。西側の調練場跡を開放して中国人の大がかりな市場が出来て、其処では戦時中と同じような中国式日用食糧が何でも売り出された。東安市場や東単、西単の菜場が再開されたようなもの人々は盛んに出かけて中国人をしこたま儲けさせる原動力となった。露店で買物したり、屋台へ腰掛けてパイカル(白乾)をパイーひっかけて楽しそうであった。手持ちの連銀券は日本では通用しない。使い余れば焼却するより仕方のない代物だから其の費消ぶりもはでやかで、村に氾濫する札束は勢い柵外の中国人市場ヘいきおいよく流れてゆくようであった。

宗教家たちは激動する思想界をながめて種々対策を考えていたが、或るキリスト教牧師は第一区にある中国軍管理の礼堂(講堂)で日躍学校を催して子供たちを善導するに大童であった。問題はここから起った。元来礼堂を使用したいものは其の趣を分会へ申出る。分会は管理所へ、管理所は軍管理所の了解を得て許可を与えることになっているから分会はこれらの集会を充分監督する責任がある。しかし正式の手続きを経ず、親しくなった管理所へ届出るだけで礼堂を使用する向もあったらしく其の場合は分会は何等知らずに過すことになる。
この日一月十三日午後零時十五分、一人の中國軍曹が私の部屋へ来て「徒手官兵管理所」へ直ぐに来いという。出向いて見ると九十二軍派遣の銭駿大尉が酒気を帯びて待ち構えていた。
″お前が日僑の責任者か″
″ハイ、そうです“
“本日午前中、礼堂を使用して日曜学校をやらせたのはお前か″
“イヤ、それは全く私の方では存じません”
“それでもお前は責任者というのか″
と威丈高に叫ぶと大尉は矢庭に私の持っている籐のステッキを引ったくるや力をこめて、左上膊と左足首を三回殴打し、私が床上に倒れるのを見てさらに三回長靴で私の腰部を強蹴した。私か起き上がることもできずに居るのを見てステッキを放り出し悠々と二階へ上って行ってしまった。
私は三週間の打撲傷を負わされはうように棟つづきの管理所長室へ行って事件の大要を説明した。
驚いた所長は即座に軍所長の李大佐を呼んで善後策を協議したが、私は一万の集結居留民に不安を与えることを憂え、「この結果生ずる事態はすべて中国側の善後措置如何に帰する」旨を宣言して、急を聞いて駈けつけた同胞たちに抱えられて私室へ帰ったのであった。

翌日私は北京警察局長へ「分会長辞任」を申出で後任に吉野幹事を推した。北支軍当局は中国側軍部に申入れて銭大尉は転任と決定した。日僑本部からは大使館の福田行政課長、栗本首席領事、前田民団助役等多数の見舞客が押かけて来て狭い私室はごった返したが私はきわめて冷静であった。

分 会 長 辞 任

思えば分会建設の当初が一番苦しかった。一万の同胞を結束心にかためて帰国するまでの生活、そこには敗戦による思想上の激変が人々の心の底に強く流れているのを見忘れてはならない。西苑村をあくまでも平和たらしめんには「動く祖国の姿」も判らせればならない。それに最も必要なのは。新聞”である。そこで同盟通信部長高雄辰馬に村の回覧板たる「西苑(謄写版)の発刊を一任した。集結中の新聞記者たちを同志としてラジオにより祖国のニュースをキャッチし、それに“村の出来事” “ 帰国情報” などを収録して各連保へ無料配達することが出来た。いくらか世間のことが判ったので新聞「西苑」は非常な好評を博したのであった。私が暴漢に負傷されて分会長を去ったときの「西苑」第五十八号(昭和二十一年一月十九日付)には次のような私に関する記事が載った。

「西苑村生みの親 老躯、活躍の高木氏」
分会長の椅子を吉野氏に譲った高木冨五郎氏は西苑村生みの親として一万村民周知のところだが、氏は元東亜新報論説委員として現地言論界に活躍し、終戦直ちに十万日僑の自治運動に乗り出し現北京日僑自治会の設立首脳者とし奔走を続け、急変直後における暗中模索の日僑生活に新生の光明を与えんと大いに尽力した。かくて昨年十一月日僑集結問題が急進具体化するや、氏は率先集結者の一人となって西苑村入りを希望し、集結地に明朗自治体を生まんと自治会本部のブレントラストの位置を飛び出して西苑分会設立に献身した。

言論家というよりも優れたその腕を認められる。
氏の活躍は文字通り縦横無尽、常に分会長の名を恥かしめず対内外諸般に亘って一万集結村民を激励し、当時極めて不良な環境を打破し、西苑自治体の明朗育成に涙ぐましいまでの努力と率先躬行で一貫された。特に分会財政資金の調達には常に氏が老躯を冒して苦心惨胆の結果用を便じ、尨大なる救恤金を始め分会諸般の経済的危機を双肩に担って克服した。

爾来三か月、中国側の極めて理解ある好意と良導施策と相俟ち、自治西苑の成長は一万日僑の新生とともに日新一途の目ざましい業をおさめ、既に単身男子四百余名の帰国を完了し、いままた八千名に上る第二輸送の業を目前に控えて他地区集結所に見られぬ自治力の強さと弾力性を顕現している。
霜晨、そして寒夜の西苑、あの足の悪い氏が杖を引いて連保を訪廻する姿をかいま見た村民は知っているだろう。今日の西苑が氏の如き没我尽衆の仁を得て初めて今日の幸福を持ったことを……。

思 想 と 治 安

(イ)礼堂冒讀問題 
軍管理下にある礼堂(講堂)の正面に「孫文遺嘱」が六尺四方位の大きな紙に書いて貼ってあった。
けだし終戦後再興して来た「国父崇拝」の機運を軍隊に養成する手段としていたらしい。その「遺嘱」が何者かに剥ぎ取られて紛失したという事件である。
中国側では軍も官もことごとく激昂して「総理遺嘱は日本の勅語のようなものだ、それを剥ぎ取って破棄するとは思想的に意図したものの仕業であって許すべからざる大罪である。日僑側は速やかに犯人を逮捕して中岡側へ引渡すべきである」と厳重な通告をして来た。もっともな主張で我が方も警務班を動員して犯人捜索に全力を注いだがなかなか判明しない。幾人かの容疑者を留置取り調べたが真犯人との確証が容易に上らなかった。

(ロ)三民主義研究会
管理所の希望によって「三民主義研究会」を結成して第一区の一棟で「三民主義講座」を開講した。一週二回午後二時から二時間とし講師には私が委嘱された。実は中両側でも三民主義の実体を詳解するものが居ないというので私にお鉢が廻って来たのだが、専ら警察官へ講義するもので耽総務股長以下
五、六十人の警官が熱心に受講した。
それ以後は巡警に会うと彼等は礼儀深く私に挙手の礼をするし、特に眈股長以下五名の幹部級は夜になると私の私室を訪れて三民主義談義に花を咲かすことが屡々あった。

(ハ)民主党活躍
第二区在住の天羽某を盟主として「西苑民主党」が結成された。彼等は澎湃として起った祖国の「民主主義」に即応して時代の尖端をゆくのだと豪語してしきりに民主主義の鼓吹をはじめ、集結所の自治方式についても分会の施策に何かと反対して大いに野党的気分を発揮して痛快がっていた。

(二) キリスト教運動 
キリスト教各派の牧師たちは合同してキリスト教運動を展開した。敗戦の結果茫然自失した日本人、何となく大陸ボケした引揚者、国家独立の信念を失ったかのような人たちに、神の愛と、人類の平和とを自覚して永遠の幸福をもたらすものはキリスト教の福音であると主唱して街頭伝道が盛んとなった。
もとより信仰の自由は憲法の認むるところであるから此の運動は一般に受けいれられたようで、これは良い意味での精神復興運動に役立つものがあったようだ。

( ホ)物価高と盗難
集結三か月となると各自の貯蔵米は少なくなる、燃料も底を突いて来る。物資班では懸命に中国商人に交渉して補充策を講じているが足もとを見られて物価は日々引上げられて驚くほどな高値を呼び出した。砂糖、醤油から野菜、鮮魚、肉類と何れも高騰の止めようもない。それでも貯えのある連中は値段かまわず買ったので支那商人はついに市場ばかりでなく集結所内へまで御用聞きを出入させるようになった。治安上面白くないが事実は黙認せざるを得ない状態となってしまった。
けれども貯えの少ない人は困却した。


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