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19083108高木 冨五郎

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2019.08.31 自分史・家族史「孫文先生と私~履歴」 投稿者:高木 冨五郎

我が生涯 冷夢庵 (8)

(昭和三二・七「新聞之新聞」)
孫文先生と私

拝啓先日の孫文先生三十周年記念祭は寔に意義深いものでした。座談会には処用のため出席致しかねましたが、左に孫先生思い出の一齣を申上げます。
それは大正十三年の十月でしたか、孫文先生北上の途次日本へ立寄るというので新聞社から神戸へ特派されて、私は孫文先生来着の日に神戸へ急行した。
 孫文先生は戴天仇以下を随えて海岸のオリエンタル・ホテルヘ投宿。私もその附近の何とかいう外人経営のホテルへ落ちついて、さて孫先生のインタビューをどうして取るかに画策これつとめ、朝から夜までオリエンタルホテルへ詰めかけたものである。勿論、朝日、毎日を始め各新聞社、通信社の特派記者が雲集していたので、秘書の戴天仇君が大いに気を利かせ、共同会見の機会をつくって呉れたが、私ははるばる東京から出かけて行ったのだから、どうしても孫先生との単独会見を得て、東京の新聞に鼻をあかしてやりたいと、若いジャーナリストとしては当然の慾望を秘めていた。

 朝日の神尾茂君とか、毎日の布施勝治君とかいう斯界のベテランが、大朝、大毎の威力を背景に戴天仇君と個人的な知己を利用して有利な策を演じている。ところが唯一人で出かけた私は、まだ直通電話を持たない新聞社の、それでも孫文先生の北上問題について多大の関心を持つ財界人を読者に持っている特殊の立場にある関係から、是非とも単独会見を獲得したい。だから、実際戴天仇君には気の毒であったが、毎日五、六回は彼に面会して「東京を代表して遥々来だのは僕だけだ」という理由をつけて遮二無二単独会見の取計らい方を懇願したものである。

 朝日の神尾君とは華府会議のときにワシントンで一緒に仕事をしたし、毎日の布施君とは長春会議や川上ヨッフェ会談の時に同じ仕事を競争した既知の先輩であるが、私は今度こそは何とか先鞭を付けようとの野心を持っていた。
 孫文はもうじき天津へ行かれる。その前に神戸高女の講堂で「大亜細亜主義」に関する大演説会を開くことになっていた。その前に是非と、ほんとうに血眼になって戴天仇君にぶらさがったところ、果然、大演説会の二日前に、単独会見を取計らったとのことであった。「但し先生はお疲れだから五分間だけということにして、それを厳守して呉れ」という。欣喜雀躍した私は、予じめ質問項目などを用意して、さて其の朝を待ったわけである。

 午前十時シャープに戴君の部屋をノックする。待ち構えていた戴君は即刻、私を同伴して隣室の孫文先生の会見室へ案内した。広い部屋のテーブルの前に先生は端座して居られた。其の背広に包まれた先生の風貌は写真で屡々承知している其のままである。「誰かに似ている」と思いながら其前へ坐ると私はいきなり右手を出して握手を求めたものである。「ホーツ」というような面持で、しかしあの慈顔をほころばして快よく握手にこたえて
「君は外国へ行って来ましたね」と第一声である。おそらくこの若い新聞記者の挙措がほほ笑ましく思われたに違いない。孫文先生の第一声が「英語」であったから、私も覚東ない英語でそれに答え、やがてまず第一問を英語で発して見た。すると孫文先生は傍らの戴天仇君を顧みて、やさしいが然しするどい眼差しを向けて、やがて諄々と中国語で、日華関係及び世界情勢、さては大亜細亜主義についての理想を語り姶めたのである。

戴君の通訳を待ち切れないような、強い語調で、熱を帯びた句調が次々と吐かれた。私もほとんど夢中になって質問を重ねたが孫先生はそれに対して一々親切に解説を加えて下さった。
会見時間の五分間が十七分も超過したが孫先生は語り終ってから満足そうに、この異国の若い記者をいたわるように最後の一言を英語で

 「何処の国でも、青年が正しく進まなくては国家の進歩も人類の平和もない」

と結ばれた。この一語は、私に対する餞けであるとともに、人類すべてへの平凡な金言であると思う。私の耳底に今もなお生々しく残り響いている言葉である。
 私のこの単独会見記を電話で東京の本社へ送り、其の日の夕刊第一面を埋めつくす大特ダネ記事となったのを今でも楽しく思い浮ばれる。翌年孫文先生が北京で客死された後、私の社の記者が天津で戴天仇君に会っ時、戴君がその私の社の記者に「君の社に、高木という心臓の大きな青年が居るね」と言って笑っていたそうだ。孫文先生の強い印象の一こまである。
(昭和三〇・四・一二「大亜細亜復興」誌)

黎元洪と殷祺瑞
( 黎元洪)
 「新聞之新聞」三十五周年おめでとう。その頃の私は何処に居つたかと古い日記帳をめくって見たら、それは大正十三年で、芳沢公使がカラハン大使といわゆる日蘇会談をやっている最中で、私は特派員として北京へ出張し約三か月間滞在していた時であった。
 北京から帰途天津へ立寄り、船待ちのため三日ばかり旅館住いの無聊を慰めようと、天津総領事の吉田茂に面会を申し込んだところ「明日の朝お会いしましょう」との返事を受けたので其の準備をしているところへ東方通信天津支局長の鈴木長次郎君から″前大総統の黎元洪と、前国務総理の殷祺瑞から会見受諾の通知を受けたからご案内しましょう“との電話がかかって来た。そこで吉田総領事との会談を割愛し、この二人の巨頭とのインタビューの方に魅力を感じて早速鈴木君に案内されて自動車を飛ばしたものである。
 当時北京を中心とする支那の政局は激動期にあって、直隷派の曹錕、呉佩孚の北京入城を前にして、大総統黎元洪は現金三百万円と印璽を携えて北京脱出、天津へ避難した時であったから、黎大総統に面会するとは得難い好運でもあった。

 黎大総統は天津仏租界に宏壮な邸宅を構えていた。側近の者たちに僅かに三百万円しか蓄えないから総統は清廉潔白だ」と言われる程度の蓄財家だけに、邸宅も立派なら室内の調度品もことごとく奢侈をきわめていた。ソファは“ワニ”の総ナメシ革、装飾品はすべて金色さんらんたるもの、彼の服装また一般大人とは趣を異にして、黒緞子の詰襟洋服に白麻のズボン、胸のあたりに
金ぐさりを下げ、金色の万年筆をきらめかすというなかなかのスタイリストである。言うところも堂々たるもので脱出者とも見えず、さすがは辛亥革命で最初の武漢旗挙げをした将軍の風格を失っていない。
 「自分はあくまで厳正中立、廃督裁兵を主張する。今回も民心が真に国家を憂え、例えば全国の省議会が一致して自分の出馬を促すなら出てもよい。軍兵どもは現に百五十万あるが、裁兵後は三十六個師四十万で足りる。残りの百十万は全国二千の県に対し一県五十人ずつの巡警を採用、其の他は各出身省に配分して適当な職業を与えるから失業問題は起らない」
と言うことは一々もっともだ。「国民が自治に覚醒するまでは、国を救ういかなる発言もしない」と言葉を結んだが、談話中のやさしいチャーミングな眼差し、話を急ぐと「エエ、この、この・・・・・」と早口なる。だが、これが大総統だった人だといういかめしさは毫もなく、なっつこい、ひとをひきつける何ものかが内蔵しているとの印象を強くうけたことである。

(殷祺瑞)

 黎邸を辞した自動車は殷祺瑞邸の玄関へ直行した。定刻にピタリと着いたので玄関子の取次は早い。殷祺瑞は全く黎元洪とは対照的な巨人であった。日本租界寄りの女婿呉光新の邸に無雑作に「居候」の身分である。この家がまた古い支那式の空ばくたる感じ、埃っぽい不潔が充満していた。彼の服装は安緞子の支那服で、袖口あたりは垢じみていた。これこそ正真正銘の清廉潔白で、人格で衆望を支えている俤がしのばれた。
 狭苦しい、何の飾り気もない室で、誰かと囲碁に興じていたが、私が往訪すると直ぐに囲碁をやめて隣室の、これも装飾の全くないだだっ広い壁に幾枚かの「聯」を貼りめぐらしてある応接間へ自分で私を案内して、さて語り出すと黎総統と大同小異なことを言う。
 「直隷派は近く潰滅する。少くとも自滅する運命にある。戦局がどうなるなど開題ではない。
彼等が滅びて自分が出るとなれば、自分はまず“各省自治”を断行する。現在の軍隊は解散して建設事業に使役する。例えば京綏鉄道を蒙古まで延長し、その沿線で牧畜と開墾をやらせる。どうだ、この問題は日本も今から投資の準備をする必要があろう。民心が直隷派を去ったことは確かだ。目下自分のところへ直隷省内の各団体代表者が来てすでに曹錕討伐の通電を発したと言っている」

 殷総理は口数が少ない。しかし鋭い眼で横眼をつかいながら話す。そしてさも痛快気に口をねじって笑う態度がいかにも親しみやすい印象をうけたことである。
 総じて中国の昔の政治家、軍人は率直で近寄り易い感じをうけたが、今の政治家、軍人はイデオロギーが鼻先へ飛び出して来るので感服しない。(昭和三三・四・二八「新聞之新聞」)

履 歴
一、出生地、北海道利尻郡沓形村
一、本籍地、埼玉県浦和市岸町八の一七五
一、生年月日、明治二十七年三月二十七日
一、学歴
(一) 明治四十年三月公立沓形尋常高等小学校(八か年)卒業
(ニ) 明治四十四年三月私立国民英学会受験科修了
(三) 大正四年七月早稲田大学専門部政治経済科卒業
一、職 歴
(一) 明治四〇、八………四二, 六 小樽市色内町増田菓子店小僧。
(二) 明治四二、八………四四,三 日本橋桧物町エル・レイボル商館(ドイツ機械貿易商)給仕。
(三) 明治四五、四………大正元、一二 樺太西海岸公立久春内(くすんない)尋常高等小学校代用教員。
(四) 大正五、二………九、五 読売新聞記者(政治部)
(五) 大正九、七………一〇、一〇 北米ユタ州邦字紙ユタ日報主筆兼編集長。
(六) 大正十、十一………十一、二 東方信社(外務省機関)ワシントン会議特派員。
(七) 大正十一、五………昭和八、十一 中外商業新報記者(政治部記者、整理部長、政治部長兼外報部長、編集局次長兼政治部長、外報部長、論説委員兼任)中国、満州へ特派員たること六回。
(八) 昭和八、十二………十六、十一 日本外交協会幹事。(中国特派二回)
(九) 昭和十六、十二………二十、九 東亜新報杜(北京)論説委員、編集総長。(重役待遇)
(十) 昭和二十、十………二十一、三 北京日僑自治会西苑分会長。
(十一) 昭和二十一、八………二十五、七 富士電業株式会社監査役。
(十二) 昭和二十三、五………二十七、四 日東食品株式会社取締役。
(十三) 昭和二十三、十………三十、十 関東建設株式会社監査役。
(十四) 昭和二十六、九………ニ十七、七 株式会社外交時報社常務取締
役。(廃刊)
(十五) 昭和二十八、三………二九、七 自由党機関紙「自由党報」編集長。
(十六) 昭和二十九、九、………三十一、八、日本国土開発株式会社嘱託。
(十七) 末日聖徒イエス・キリスト教会機関誌「聖徒の道」編集長。
(十八) 昭和二十六、六………三十四,五 日本外交協会再建に付再び幹事。
(十九) 昭和三十四、六 名古屋へ隠退。


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