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19091701高木 冨五郎

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2019.09.17 自分史・家族史「自序」 投稿者:高木 冨五郎

我が生涯 冷夢庵(12)

 ただ何ということなしに書きたかったのが幼少の頃からの性質であった。それが長じて習性となり、ついに新聞記者となり、終生文筆に囚われの身となってしまった。
 雅号をつくって新聞雑誌へ投書したのは十七・八才のころからで、其の雅号も明治末期の樺太時代には「静昇」 「赫山」を交々用い、和歌の投書には「かく子」を称した。新聞記者になってからは本名を使用していたが、アメリカ時代から「冷夢」を常用し今日に及んだ。「冷夢」とは英語の“LAME”を意味するのである。
 年代を追って書いたものを整理したら思いの外多量となったので無聊のまま、名古屋隠棲時代に整頓したが、大体「我が生涯の記録」を概観できるので取りまとめて置いたのであった。
 此の記録は主として子供たちに「親父は一体どんなことをした男か」を説明するにあったのだが、読み返して見ると「ああそうか」と自分でも初めて気のつくことがたくさんあった。この外にも一九二一年から二二年にかけて「ユタ日報」へ連載した私小説「小島の生れ」 (一〇三回) 「或る時代」(九九回) の二篇はやはり私の記録として附加して置きたかったが際限がないので取り止めにした。
 それに新聞雑誌へ載せた「和歌」や「論文」や「随筆」なども思い出の記録として手許にあるが、すべて追憶の繰返しになってしもうから割愛した。ただ惜しかったと思うことは有力な雑誌へ書いた種々の記述があったのだが、終戦後、トラックで二台近く古書籍を売ってしまった中に混って、何処かへ流浪の旅に立たせたのが、それはあの場合生活のため已むを得なかったとは言え、結局我が生涯の記録を中絶してしまったようなもので残念至極である。
 実際、人生なんて他愛ないものだ。と言ってしまえばそれまでだが、しかし七十年の生涯を振返って見ると、「はるけくも来つるものかわ」の感を深うすることだけは確かだ。
 三人の子女の厚意によって、この記録が上梓の運びとなったことに感謝するとともに、「我が生涯」をもう一度瞑想する楽しみを味って見よう。        

昭和三十八年夏
名古屋にて
著 者 識


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