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2019.09.23 自分史・家族史「あとがきのあとがき」 投稿者:加藤 芳弘

我が生涯 冷夢庵(20)

 前記文(あとがき)を柳田姉妹から戴いたときに、彼女に電話し何とか自分の名に氏の敬称を付随して印刷するのは、恥かしいので、何とか、そこのところだけでも削除するか変更して再記述して頂けないか、御願いしたが”私の気持ちですから〃と断られ、自分の名に氏を付けて印刷するはめになってしまった。そこで彼女のあとがきの後に”あとがきのあとがき”を記述することに致しました。

 縁(えにし)という言葉があるが、縁とはまか不思議なものである。今から約36年前19才の私は、それまで名前も聞いたことのない教会の宣教師に声を掛けられ、始めて教会へ行き、一般に云う教会とは感覚の違う、破れ畳の部屋に戸惑いを感じつつ、寒風吹き抜ける部屋に身を置き、おまけに隣は寺の墓地である。ここが本当に教会?と感じる環境の中そこに集う人の眼はきらきらしていて、不思議と心やすまる居場所を確保し、そこでのんびりと宣教師と遊んでいた。

 レッスンを受けるわけでもなく、ただ心地よい居場所で宣教師とドライアイスを手にいれルートビアを製ったり、教会の会員になっていない身分で伝道に誘われ沼津の中心街の仲見世のアーケ-ド街で露店を勝手に開きモルモン経の叩き売りを行い鼻高だかで教会に戻ったり、今でも冷や汗がでる様なことを平気の平座で行い青春を謳歌していた。

 その様な田舎の支部に名古屋から柳田藤吉・聴子御家族が転入され、田舎の会員とその求道者にとって、羨望の眼差しで彼等を観たものである。当時で教会暦40年以上の柳田家族と若干19の浹垂れ小僧、ましてや父君の高木冨五郎兄弟の教会歴は60年以上の大先輩(御身高齢の為沼津支部には出席出来ない状況)である。カッコ内の事情につき私は始めて高木冨五郎兄弟に御逢いしたのは彼の通夜の宵であった。

 その様な星霜のなかで少しは私も成長し、柳田藤吉兄弟にシーリングをして戴いた。あれから数十年11月11日柳田姉妹に電話したある日、藤吉兄弟の体調が急変し、もって4~5日だと姉妹より伝えられ、監督とHTに連絡したか?伺ったら、亡くなってから連絡をと云われたが、翌日気になり朝連絡を入れたら本日未明、永眠されたとの事であった。

 今おもえば柳田姉妹と一緒に藤吉兄弟の処に行き、私が帰るときいつまでも、いつまでも、やせた手で私の手を握り離さなかった彼の顔が浮かんできます。金婚式をとっくに過ぎ結婚後69年を支えあった夫妻の姿は崇高な輝きをまとわれた姿でありました。

 柳田姉妹は現在加古川の喬夫さんの助けを受け、そこで暮らしておりますが、先般4日掛けて東京神殿に連続参入され周りをびっくりさせています。彼女の信念は、希望と決心さえあればなんでもできるなのですが、90才を越えてあまり無理はしないように時折電話を掛けている今日この頃である。

 願わくば、柳田姉妹が広尾の坂にめげず一回でも多くの神殿参入が出来る事を願っております。

2009 - 05 - 01


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