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19092901加藤 芳弘

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2019.09.29 評論・研究論文「敗戦に伴うGHQに依る日本占領政策と、その任務にあたった軍人に含まれていた末日聖徒の軍人と日本の会員達(改訂版) 前編」投稿者:加藤 芳弘

出典 我が生涯 冷夢庵

 下記伝承は、高木冨五郎(満州からの抑留引揚者)柳田聰子(乳飲み子二人を抱えて疎開の経験有り)等が実際に見聞きし、且つ経験してきた事であるが、彼等だけではなく、数多の日本國民が等しく実際に経験したことでもあり、読者の皆様の父母、又祖父母、先祖の内には此処に書き記した様な試練を経験している方が多くいらっしゃるはずであります。

 戦中、軍部に依る思想弾圧の影響で國家神道を拝する者のみが優遇され、仏教徒や基督教徒は職場から放逐されたり、最前戦に送り込まれた時代、憲兵により個人の日記等も没収検閲され國家軍部に都合の悪い者は、と云うより、気に入らない者は、粛正された闇の時代を永きに渡り経験し、戦争という狂乱の時代の疇りの去った後に残ったものは、焦燥感の漂いと極度の貧困と、今日の食べ物をどうしようという切迫した問題であった。

 当時の都会の様子は、統制物資の横流し等で闇市は拡張し、それに伴い私腹を肥やす族と筍生活で其の日一日をやっと生きのびる國民の姿であった。筍でもまだ良い方で、住む所も無く空き缶片手に物ごいする負傷者や戦争孤児で街は溢れ、空襲で焼けて曲がったトタン板一枚を奪い合う、そんな時代の話である。まだ外地からの引き揚げが始まる以前の帝都東京及び横浜中心部はさながら地獄絵図の様相を呈していた、同じ東京都心でも空襲を受けなかった地域や焼夷弾に起因する火災が燃え広がらなかった地域があり、地区と地区の間に反目も生じていた頃の話である。

 外地からの引き揚げ者(傷病兵の帰国を含む)のなかには無事に帰国し家族に巡り逢えたものの、食料が乏しい為一緒に生活出来ない人や、引き揚げてきたものの、既に家族は空襲で全員亡くなってしまわれた方もいたという。

 現在の若い教会の会員の皆様には理解して頂けないだろうが、これは現実の話である。読者諸氏は戦時交戦中の兵隊に代わり、戦後統治下、(SCAP )連合軍総司令官の司令部(GHQ )として日本に配属された兵隊に多くの末日聖徒(時期に依って増減が有るが初期約1800~終期900 と云われる) (別資料では13000~2700)が含まれていた事をごぞんじだろうか? エドワード・L・クリソード海軍中佐やボイド・K・パッカー空軍少尉(当時二十才)もその様なひとりであった。柳田聡子の弁によれば戦闘と違い統治の為、気性の穏やかな軍人部隊を抽出し統治にあたらせた為と云う。

 当時日本では噂として「進駐軍は真珠湾の仕返しに機関銃を射ちながら略奪を重ね、娘を犯しに来るので其の前に家族で自決を」と真しやかに云はれた時代である。また聞き伝えではあるが、相模及び秦野村の当時の回覧板にまだ戦中の思想の残っている資料がありそれには『鬼畜兵士到来二伴イ婦女子ハ大山、山中二集結シ、指示在ルマデ待機セシム・・・』ところが実際にやって来たのは米国の豊かな食料及び物資をジープから街に撒いていく兵隊の姿であった。多くの飢餓寸前の日本人にとって、國の云っている事と現実が正に正反対である事の実証となった次第である。この様な時代の話ではあるが近未来またこの様な時代が来ない様にするためにも多くの読者に御読み頂きたい心境であります。

 時は遡り昭和十八~十九年、戦局著しく劣勢になっても報道は大本営発表の戦局有利の報を伝えるだけで、戦局の実情を知る者は少なかったが、ガソリンが無くなり、全国で學徒動員により松根油を掘り起こす事態に至ったり、戦費が底をつき『勝札』現在で云う處の宝籤一枚十円、当選賞金十万を出すにあたって、さすがに國民はラヂオ(ラジオ)や新聞の報道に懐疑的になっていたが、表向きは軍部の意向を伝える自治會や婦人會に監視されている為竹槍訓練や防空壕の制作に勤しんでいた。
 又個人が所有する金、銀、宝石等も半強制的に紙切れ一枚で没収され、日常の外来語も敵製語と称し、おかしな日本語に置き換えられていった。『バテレン曲り尺八』何の事だか解る人は今では少ないが、楽器のサックスの事であり、ちなみにホルンは『渦巻羊追笛』である。庶民の生活から金属が消え、湯たんぽも陶器で作る時代になり、寺からは梵鐘が消えたが國家が後押しをしていた神道の祭祀道具はそのままであった。何より辛いのは言論統制により隣人同士に密告制度が施行され、自由に発言出来ない時代であり、市中は赤紙により徴兵される出征兵士の為の千人針が行われていた時代である。

 この少し前の時代、尋常小学校在学中の子供は疎開の対象にされたが卒業直の子供達は海軍工廠や軍需工場に徴用されそこで働きその建物は空襲の焼夷弾で爆撃され炎上し丸焦げになり性別不詳の状態になったり、怪我をした(当時の怪我は現在と違い、手足を失う様な重傷を怪我と云い、骨折程度は怪我とは云わなかった)筆者の母は愛知県豊橋の海軍工廠で働いた経験があり、当時の話を母に聞くと昭和十九年名古屋の街へ行った時町中に大きな穴(直径6m、深さ3m位)の穴が至るところに開いていて周囲の人から爆撃の痕だと聞いてそれはそれは衝撃的風景だったそうである命が助かっても、住む所も無く、食べるものも無く、着るものも無い手足は延焼の煤で真っ黒になり雨の中、座る所も無く、唯呆然と立っている子供の姿は、戦争本来の姿であろうこの様な戦中の子供達の事を思えば、戦後の混乱も生きて居られるだけ、まだましであった。又此の様なことが起きても、新聞ラヂオ等は軍部による検閲がある為、もっぱら大本営発表の戦線優位の報を流し続けた。

 当時帝都東京の街を壊滅させた東京大空襲でさえ他の地域の報道は控えめなものか無関与の状態であった。戦争とはそういうものであり決して映画等で常に表現される様なもので無く、庶民にとっては悲惨極まりない行為である。一部財閥や特権階級には、徴用と称し中国、朝鮮より労働者を日本の工場やダム等の工事現場で低賃金で働かせ戦争の度に急成長し、戦争成金と云われた者もいた時代である。

 このような戦争も終焉を迎えたが、残った事実で後世に傅えなければならない事は、多くの一般民衆が、戦争の犠牲になった事である。(前記の様に当時都会に住む者の殆どは焼け出され田舎の空襲に合っていない家にわずかに残った衣装や物品を持ち込み大根の切干や南瓜と交換していた。稀に米や芋と交換出来る場合もあったがそれらは農家自体も接収の為、米の入手は殆ど難しい状態であった。

 現代の読者には不可解かもしれないが現在米所として名を馳せている、北陸、東北地方の米不足は特に深刻で関東六県の方がまだ良い状態であったのであります。TVや映画で買い出し列車で出掛け米と物資を交換しているシーンが描かれることが多々あるが、これは東海、山陽地方の裕福な農家(庄屋、豪農)の記録に残るのみで日本全体の事では無いのである。戦災の陰で殆ど記録として残っていないが東北の情況は(昭和十九年の五月~六月の墨で塗りつぶされた気象圖、X線に依る解読)に痕跡をみてとれるが庄内では山から吹き下ろす冷たい風(ヤマセ)の為、米の開花受粉率が極端に低く貧しい農家では口減らしが各地で行われていた。

 空襲に襲われた地域(都市部や軍事拠点)の実情は極めて悲惨で帝都東京も岡山へ遷都する案も出たくらいである。この当時、治安維持業務は著しく停滞し自分の身は自分で守るしかない時代であった。戦後直極端な物価上昇が生活を脅かし、都会は飢餓人で溢れ、闇市で一拝の黒豆二つの水屯( 筆者注釈水屯はあて字で正しくは水団である。亦、黒豆二つとは豆が入っている訳ではなく眼が写る程水っぽいという意味であり箸が立たない芋の葉や茎の入った雑穀汁である。亦、水屯の屯は重さの単位の屯で、闇市では量を感じさせる此の字を使用していた)を食べるのにも財布と相談の時代である。

 これはまたGHQの軍人にとっても、自らの目の前で飢餓や傷病の焉に亡くなっていく多くの老人や戦争孤児の状況を日常的に、目の当たりにした訳である。東京市の統計によれば戦中の昭和二十年より次年の廿一年の方が飢餓の為死亡者が多く遺体が道路に溢れ各地の川原に遺体を集め集団火葬を施している。之は占領軍人の彼等の心にも人として大きな衝撃を受けた訳である。まして彼等は戦時中直接交戦した兵隊では無く統治の貫に米国国内において訓練された兵隊の為、気性の穏やかな者が選抜されていたのである。この時代ジープから軍用食料や衣料品を市中に、ぱら蒔く行為が行われた。

 無論彼等は其の行為の為に軍事法廷より喚問を受ける事になるが不思議にも暗黙の了解を得その行為は継続される事となる。(後には末日聖徒の軍人以外の軍人も行っている)この運動行為は、筆者の知る範囲では、最初昭和二十年十二月下旬に名古屋近郊で確認され、約一か月以内と推察しされる短期間内に全国へ波及している。
末日聖徒の軍人によるという確証はないが横浜、桑名、箕面、摂津呉、福岡等に於ては、何と円札が市中に撒かれている事(昭和二十一年二月)を鑑みれば、此は財閥解体や農地改革等と同様に戦後の占領政策の一端なのか、それとも悲惨な状況を目にした軍人の良心から派生したものか、今となっては定かでは無いが最も大切なことは其の行いにより、生命を救われた日本人が日本中に実際に沢山居たことである。

 筆者個人としては之はそうとうの占領軍上層部の戦後統治の一策であろうと考えるのが妥当と思われるのだが真相は現在となっては知る由も無いのである。前述進駐軍の配布食料を貰った人の子孫が現在どれだけいるかを考えた時、彼等末日聖徒の兵隊が行ったことは神の意ではないだろうか?又日本人への神の恩寵というべきであるしかしながら(物資に群がる自国民を日本人の誇りを失った者と蔑んだ者もいたそうだがその様な者は食うに困らぬ者が多かった時代でも有る。)政府の配給では生きていけない時代であり、闇米を口にせず栄養失調で亡くなった判事の話は有名である。

 2005年株式会社フリーマン(発行人福永隆)より森駒枝著『佐藤龍猪』という書籍が発刊され其の42~45頁に軍の食料貯蔵庫より食料を大量に持ち出しトラックから市中にばらまいた末日聖徒軍人達の氏名や軍法会議に召還された際に彼等が語った動機を詳しく載せた証言記録と、その後のGHQの対応を描いており、購読を御進めいたします。

株式会社フリーマン連絡先〒150-0031 東京都渋谷区桜丘町29-10
TEL 03-3463-0652 FAX 3-3463-0653

 亦、彼等進駐軍の末日聖徒の軍人は各地に配属後直に寄付金を出し合い、孤児院等に寄付をする運動が開始されている。日本全国から見ればそれは一見焼け石に水的、無意味に見えた時代であったが、多年に渡る継続により、少しの事でも実際に行勤すことにより着実に広がりを見せたのである。記録に残る一例として鷺の宮の孤児院に此の寄付金で毛布を寄贈していることがLDSメッセンジャーに記載が残っている。

 終戦直後(昭和廿年十一月)の1USドルは米1/2俵、約30kgの価値があった為、大きな働きとなったのである。彼等末日聖徒の軍人は上記の献金とは別に日本に教会堂を建築するための準備金も献金しているのである。又後で述べるが上記献金とは別途に将来自分たちがこの日本の地を離れる時代の為にこの國の宣教師が自國民に福音を伝える事が出来る様一人一か月1$の献金を開始するのであった。又彼等は当然占領軍軍人であるが、実質的に宣教師の側面も有していたが、戦後統治がGHQに依る直接統治では無く、日本の司法官憲に指示を与える間接統治になった為彼等の任期は当初の予想より短く二~三か月で帰国する指揮官が多かったのである。
 戦後直後にバプテスマを受けた佐藤龍猪家族はその様な軍人より末日聖徒の教えを享受し改宗をした話は誰もが知るところである。
戦後当時比較的財産を持っていた者は闇市に群り、貧しき者の中には、生きていく為には違法と解っていても悪事に手を染める者もいた時代である。

 現在の私達は水を飲みたければ蛇口を拈ればそれで済むが(より高価なミネラルウォーターを買い求め飲む人もいるが)我國に於ては、水道は明治時代から整備され(正確には江戸後期より)其の地域は増えてはいたが、昭和二十年当時、田舎の大半は井戸であった、その井戸の水が飲める人はまだ良い環境であり、溜池や水田の水を飲み病気に伝染経験をした人も多いと云う。飲み水がその様な状態であるから他の衛生状態も現在とは大違いで、多少の怪我は赤チンを塗っておしまいであり子供達の致死率も生後1年で7%台に達していた。其の様な情況下でも、敗戦に伴い空襲の恐怖が去っただけ希望を胸に抱けるようになるのであった。

 佐藤龍猪兄弟はあまり御自身の過去の話を語らなかった方であったが彼の改宗談は多くの書籍に詳しく記載されているので御参照戴きたく思います。そこには黎明期(戦前)ヒーバー・J・グラントが視察旅行した折、彼の知恵の言葉の教えの一部が、佐藤龍猪兄弟の住む街の酒に溺れ誰も相手にされない老人の言葉に佐藤龍猪兄弟が耳をかたむけ聞き及んでいたことがこの話のきっかけである。佐藤龍猪兄弟は準備され、備えられた方であることを知ることが出来るのである。下記事柄は戦後初期改宗した佐藤龍猪兄弟が高木冨五郎に後日語った事柄を娘の柳田聡子姉妹からの伝承を元に筆者が纏めた文章であります。

 佐藤兄弟は尾張は鳴海の出身で昭和初期には仙台師範学校の科学の教師をしておりましたが、時世怪しく軍部の思想粛正により(メソジスト派の為)その職を失い、後に東北大学金属研究所に於て金属研究をしていた科学者であり、後に川崎の日本金属という会社で金属研究をしていましたが、終戦時には故郷の鳴海に戻っていました、日本中の誰もかもが辛酸を嘗めた時代、それは高木冨五郎の家族や佐藤龍猪の家族も例外ではなかった。佐藤龍猪兄弟が高木冨五郎に語った弁に依れば、栄養失調と環境の不衛生に伴い娘さん(佐藤淳子)を亡くされています。息子の泰生君も極度の栄養失調により生死の境をさまよった事を聞き及んでおります。前述、飲み水が無く小川や水田の水を飲み体調を壊した経験は佐藤家の子供達が実際に経験したことであります。亦、父の弁によれば息子は進駐軍の末日聖徒の軍人よりパンやチョコレートを複数回に渡り戴いているとのことであります。何よりも飢えと病により娘さんを亡くされた佐藤御夫妻にとって、生きる糧は息子の成長だけだったと後年、高木冨五郎は聞かされたそうである。又佐藤龍猪兄弟は息子が幼少の時期、GHQの助けが得られなければ生きていかれなかった状態で二人の子供を失ってしまう状況下であった旨を話されたそうです。

 話の舞台は中国大陸に転じ、時間は昭和廿年に戻るが、当時大陸に約七万人の邦人(軍人軍属を除く)が抑留されており、中国各地に集結所が設営され其の内の西宛にて一万二千人の帰還の責任者として働いたのが高木冨五郎北京日僑西宛集結所分会長である。むろん高木冨五郎本人も満州において筆舌に尽くせぬ辛酸をなめ、一万二千人の抑留者を統率し祖国に帰れる希望を抱かせ、どんなに惨めな風体になろうとも祖国の地を踏ませる為に自分の事はさておき、抑留者を順次帰国させていった。この集結所に当時五才の高根節子、後の川崎節子(日本人初期姉妹宣教師)も居たという。高木自身も痩せ衰え、孫の顔を夢に見ながら帰国したのである。又そのすこし前の戦中の時代柳田聰子は乳飲み子を抱え空襲の最中疎開していたが、田舎にいて未亡人になるよりいっそ生死は夫と共にと思い、夫藤吉のいる名古屋にもどったのである。戦中と違い空襲は無くなったが、極度の物価高騰が庶民を襲い、物資を持つ者のみが「ぬれ手に粟」を得る時代が到来しつつあった。

 昭和二十二年1947年二月内地に戻った高木冨五郎のもとに一通の日本語による手紙が布畦(ハワイ)から届いています。『新年の御慶びを申し上げ併せて御貴殿の御健康と御幸福を祈り上げます。御承知のこととは存じますが、我が末日聖徒耶蘇基督教會は日本に於て伝道部を再開致します不肖私が日本傅導部長に任ぜられ傅導部の開設及び支部其の他の創立にあたります。(中略) (後略)昭和二十三1948年一月十三日エドワード・L・クリソード』待ちに待った傅導部再開を知らせる手紙であった。此の手紙を受け取った高木兄弟の気持ちは如何ばかりであったであろうか。(続く)

  • 戦争で得をする人などいないにも関わらず、至ると事で戦争という手段が今も行われています。人は、愚かです。悲しみを何度経験しても、同じことを繰り返してしまいます。やはり、信仰が必要ですね。改めて、謙遜になる必要を感じる昨今です。貴重な体験を有難うございます。 -- 文美 2019-09-30 (月) 11:42:26

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