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19093001加藤 芳弘

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2019.09.30 評論・研究論文「敗戦に伴うGHQに依る日本占領政策と、その任務にあたった軍人に含まれていた末日聖徒の軍人と日本の会員達(改訂版)後編」投稿者:加藤 芳弘

出典 我が生涯 冷夢庵

 時を逆のぼること十三年前、本書にも掲載してあるが高木冨五郎は傅導部閉鎖中に傅導部再開を訴える書簡をエルバート・D・トマス及びアルマ・O・ティラーに充てて出している無論時局は反米英に突き進みつつあった時代のことである。この頃日本政府は満州事変を中国内部の闘いで日本は直接関与していないという姿勢を貫いた。これは石油や鉄鉱石を米国より輸入している為に、米国に戦争当事国に物資輸出を規制する法令があった為である。また此のことが後に印度支那にエネルギーを求める「大東亜共榮圈」構想に繋がった時代である。無論諸外國から観れば満州は日本の傀儡政権としか映っていなかったのである。

 此の様な状況下では高木冨五郎が執筆した傅導部再開の趣意書も、その訴える所は闇に飲み込まれていった時代であった。「大東亜共榮圈」も其の名目上はともかく現実は惨惜たる状況に追い込まれつつあり、物資の欠乏は國家の屋台骨を蝕んだのである。日本國内の様子も前述の通り悲惨を極め味噌汁が塩汁に変わったり(小麦や大豆が入手出来ない為)薩摩芋の蔓や葉で飢えを凌ぐ体であった。
(芋が収穫されても芋は戦地に送る名目の下、軍部により接収され、庶民にはなかなか口に出来なかったが、軍人が集まる料亭や旅館などはいつも大量の米や味噌、又当時第一級の統制品である砂糖、羊羹、挙げ句の果ては洋酒まで揃っていたという。

 時は流れ幾星霜、ポツダム宣言受諾において厚く覆った暗雲から木漏陽がさし始めた時代が到来し信教の自由が確立される時代が訪れたのであった。

 此の後高木冨五郎・奈良富士哉・佐藤龍猪・熊谷たまの・桂鶴一等の所に教会の慈善奉仕会から物資が送られて来るようになる。
高木冨五郎は其の様子を後年聖徒の道に記している『1947年11月2日布畦(ハワイ)のモルモン教会福祉委員会から突然一個の小包が私の宅に届けられた。理由も何も考えずに取る物も取りあえず小包を開けて見たら中から出るは出るは、米の缶詰、砂糖、キャンデー薬品下着類から靴下、手袋など二十点余り、目の前に広げてから家族と共に飢えたる子羊が素晴らしい食物にありついたように唯呆然とそれを眺めるばかりであった。実際当時の日本は極度な衣食困窮に沈み國民は悉く生きる焉の努力さえも失ったのかのように滅入っていた時であるから、私はこの天から降って来た恵の数々に涙ぐむ程の感激を覚えずにはおられませんでした。』高木冨五郎の弁に依れば私高木だけでも援助の回数は五回にもおよぶと云う。

 前述述べたエドワード・L・クリソード海軍中佐により末日聖徒と連絡を取りたい旨の新聞広告が出されたのである。この広告を視た渡辺由次郎の娘、田鶴子が記事を発見し田鶴子は奈良富士哉の職場に駆け付け奈良富士哉と共にGHQの将校用に接収されていた東京第一生命会館へ面会に行きエドワード・L・クリソードに日本の聖徒の困窮した状況を伝えている(当時高木は満州に抑留中)クリソード中佐は日本の地に傅導部再開を模索する為に在京の会員達の様子を尋ねている。又SCAP 連合軍総司令長官ダグラス・マッカーサー元帥のオフィスのあるGHQ連合軍総司令部に行き、末日聖徒のラッセル・N・堀内に奈良富士哉を紹介している。ラッセル・N・堀内は、クリソート中佐の依頼を受けソルトレークの教会本部と日本に於ける傅導部再開について尽力を尽くすのであった。その後、日本の生活状況は少しづつ改善される事になるが、福音を求める人の数は皮肉な事に朝鮮動乱の特需により日本の経済が持ち直すにつれ少なくなるのであった。(今井一男談)

 再述乍、この少し前の時代、前述の様に将来、日本人が伝道を行える様に末日聖徒の軍人は一月一人I ドル献金を出し、此のお金を使用し日本人が宣教師として傅導に出れる様にとの為に特別献金が開始されるのである。(日本人初の宣教師は1951' 12' 31日)筆者は先日(2009' 08' 07)厚木の今井兄弟宅にお邪魔した際、彼より『当時私の家族の家計は苦しく、私は九人兄弟の長男で且つ父は病でその日暮らしをしていましたが、福音に對する証詞だけは持ち続けていました。ある日支部長の高木冨五郎長老より傅導(現在の字では伝道)に出ないかと云はれました時に、喜びはいっぱいでしたが前述の様な諸般の事情が有るため即座に返答出来ませんでした。しかしよく祈り父の病も改善しましたので母に傅導に出たい旨を伝え、母の許しを受け傅導に出る事に為りましたが着るものが有りません当時傅導部長のマース長老は今井兄弟を新橋の闇市に連れていき上下の背広を買ってくれたそうです。今井兄弟はその背広と同僚から貰った背広で傅導したそうである』又、奈良富士哉兄弟は彼等、末日聖徒GHQ軍人の活動を支援する為に自宅を子供日曜學校の場所として開放しておりました。当時の状況を昨日(2009,8,16)柳田姉妹に伺った所小学生当時(鳴海)の佐藤泰生兄弟について、よくお逢いしておりますと云っておられ、そのなかで当時は、何処の家も生きて行くのに精一杯であったが微かな希望の光を子供に託す。その様な時代だったと教えてくださいました。

 時代は少し逆行するが、第二次世界大戦(日本では大東亜戦争と称す)の勃発前約十五年前、日米関係の悪化に伴い日本に於ける教会活動は伝道部閉鎖に伴い極端に縮小したが、奈良富士哉、藤原武夫等により福音の灯火は引き継がれたが藤原武夫の逝去に伴い組織としての活動は停止した。此の戦争に起因し枝葉は勿論幹迄焼失した教会は地中深くに残存していた根より双葉を出だすきっかけは敗戦により赴任した末日聖徒軍人達がGHQに接収された建物に於て聖餐会を開いており、戦前の日本人会員が入場パスを入手し参加したことがきっかけである。この時の入場パス(奈良夫妻)が使用したものを北海道恵庭の潟沼誠二兄弟が所有しており複写を撮らせて下さいました。当時の奈良兄弟の書簡には「毎日曜日午後二時より丸の内明治生命ビル七階に於て本教会員(進駐軍)の聖餐会が行われて居ります仲々盛大なものであります。日本人信者も出席を許可されて居ますから小生に御連絡下さい。と記されている。

 時代は下り、前述記した様に朝鮮動乱特需に伴い教会の門を叩く人の数は減ったが、そこに集う人の努力は弛まづ続けられ、各地で教会の活動が活発化してくる、彼等に与えられた課題はまづ自分達が集う集場所の確保と維持運営の為の資金対策であるが、それは対外的に教会を他の人に知ってもらうきっかけともなった。各地で様々な事が行われた。例えばオルガンを購入する為に廃品回収をしたり、運営資金の為にバザーを開いたりハワイから来ていた宣教師の協力を得ハワイアンショウを開催したり、音楽会を開催している今井一男兄弟は広島県の呉市でメロディメンという宣教師グループと逢っているが、彼等は音楽で全国を巡りコーラスグループが日本で誕生するきっかけともなっている。

 各支部でそれぞれ会員、宣教師が汗を流していた時代である。今井一男は当時を振り返り(羊が多く集まると狼がやって来る)と語り狼が狼である証拠を掴むのが指導者の責務であったと往時を振り返った。

 傅道を再開するにあたり福音を聞く側の日本人には米国人は戦時中の敵国人であり戸惑いを感じる方も多かったと伝承されている。
しかし宣教師の伝える真実の福音に接した人の改宗は着実に増加したが、未だ偏見の残る時代であり、傅道に出掛け塩を撒かれたり唾を吐き掛けられたり自転車を壊されたりした。

 その様なとき、ヴァイナル・G・マース傅道部長は決まって『オメデトウゴザイマス、あなたはキリスト様の気持ちが理解出来ます』と云ったそうである。そして塩を撒かれた宣教師に靴の埃を払わない様に伝えた。もし埃を払うとしたら、それは傅道部長である私の判断で行うので君は行わない様にと伝えたと云われている。尚このマース傅道部長を表現するのに少し仏教的でおかしいが(仏のマース様)という表現が今に伝わっています。(今井一男談)別説ではマース傅道部長は葬儀屋を経営していた御金持ちなので、宣教師の為にお金を使用し(仏のマース様)と云われた(柳田聡子談)との説もあるが温厚で親切柔和な方であったと伝承されており妻のエセル・マースも同じ様に当時の宣教師達の間で称されていたと云う。

 さて拙き文にて、現在の読者の方にどれだけ当時の様子を理解して頂けたかは解りませんが、私としては試練の中、艱難辛苦を耐え信仰を守り通した先人の血と汗を土壌として現在の日本の教会が成り立ち成長を続けている訳であり、夢の様に恵まれた教会堂を戴き冷暖房利いた礼拝堂で今日は熱いの寒いの云っている自分を振り返ると恥かしくなるのであるが、今の会員にも往時を直視して頂きたいという祈りにも似た、あつい願いで筆を取った次第であります。読者の皆様には長文になってしまい真に申し訳なく思いますが、此の時代の事を書き出しますと筆が止まらなくなってしまいます。本当はもっと、例えば、エズラ・タフト・ベンソン農務長官と戦後日本の子供達の成長を助けた脱脂粉乳の話とか、南知多まで天竜の水を運んだ愛知用水の設計施工に関わった末日聖徒の治水技術の事など書きたいことがまだまだ在るのですが紙幅にも限りが有るので、このあたりで筆を置かせて戴きます。

  • 加藤兄弟、断片的にでも、こうして当時の様子を、様々な方々の証言をおりまぜながら記してくださることが、かえって、臨場感をもって私の心に響いてきます。戦前戦後の末日聖徒の方々の類稀な信仰と行動力に感銘を覚えるとともに、現在がいかに恵まれた環境の中に身を置かさせていただているか、をしみじみと感じさせていただけます。感謝です。当ワードの方々にも何らかの形で、戦前戦後のこのような歴史の一端を伝える機会があればと思います。ありがとうございます。 -- おーちゃん 2019-10-02 (水) 03:09:35
  • おーちゃん様
    「コメントのお返事をしたいのですが、どなたか分かりません」と著者がおっしゃっていましたのでお伝えします。 -- 岸野みさを 2019-10-02 (水) 09:41:05
  • 名古屋ステーク・一宮ワードの松岡です。昨年柳田姉妹に感謝する会(名古屋市名東ワード)で加藤兄弟とお会いしました。あのとき、日本版モルモン経初版本などの歴史的な展示物に感動を覚えました。加藤兄弟の地道な努力に頭が下がる思いをいだいたのを覚えています。あの後、私はこの地域のシオンの会の広報紙や名古屋ステークの新聞などにその模様をお伝えさせていただきました。日本の教会歴史の一端に触れたことは、私にとって大切な1日となりました。ありとうございます。またこれからもよろしくお願いします。”おーちゃん”というネイムは、名前の”おさむ(收)”からきています。若いとき親しい周りの人から呼ばれたのが”おーちゃん”でした。すみません。以上、おーちゃんでした(笑)。 -- おーちゃん 2019-10-02 (水) 20:40:00
  • 松岡収さま
    ご回答ありがとうございました。柳田聰子姉妹に感謝する会の原稿を穀粒にもお寄せいただければ大変光栄に存じます。また、名古屋ステークや、一宮ワードの活動なども分かち合っていただければ嬉しいです。 -- 岸野みさを 2019-10-03 (木) 10:40:51
  • 松岡 牧様
     
     岸野様に依る『穀粒』に御掲載頂いた記事(敗戦に伴うGHQに依る日本占領政策とその任務にあたった軍人に含まれていた末日聖徒の軍人と日本の会員達)の執筆者の加藤芳弘と申します。

     私の記事の感想を岸野姉妹より拝受致しました。松岡様の御感想が一番早く、掲載から日数もあまり通ぎていないなかで、今私の拙文に御眼を通して下さり感謝申し上げます。前・後編お読み戴いたと推測致しますが書き込みが後編の方に記載されている旨を岸野姉妹より伺いましたので著者としては前編の方により思い入れが深いため、前編を御覧戴い
    たか?と想った次第です。

     松岡様には名古屋に於て柳田聰子姉妹に感謝する会に於て、小生の展示を御覧戴き有り難う御座います。もう1年が過ぎている事を再確認し月日の流れる早さに驚嘆しています。あの当日は前日夜遅く沼津を出て阿倍野に向かい、阿倍野にて展示物を回収し御器所に朝10時に着く様高速を飛ばしていたことを想い出します。

     シオン会は名古屋ST・名古屋東STの両方にまたがっており、その活動は多岐に渡り、シオン会に属する高年代の方々は恵まれていると感じています。山本修様・日阪忍様・鮎澤榮一 友亀子御夫妻様等、名古屋の皆様は私の活動の為に資料を賜らせて下さった方達であり彼等の資料及び証言により私の記した文章の骨格が組まれています。 

     亦、鮎澤夫妻にはポツダム宣言受諾国書の複写を頂戴するなどしており大変有り難い恩人です。亦、私は読み書き能力に劣る為どうしても読めない文字があると3名の方、鮎澤榮一兄弟・潟沼誠二兄弟・(故)福田正勝兄弟等に、この字は何と読むのかと教えを乞いています。この様に皆様の御教えにより私の文は出来ており、一応加藤芳弘著作となって
    いますが、正碓に云えば編著が正しいかも知れません。

     大変失礼な事ですが、名古屋に於てお世話になった皆様の御芳名をあまり覚えておらず、松岡様も御尊顔と御芳名が一致しておりません。申し訳有りません。今後、岸野様が継続して『穀粒』に私の執筆や資料写真等を掲載して頂けるかどうかは私には解りませんが、もし掲載される様でしたら。皆々様に御目通しを戴き御指導並びに御感想を頂戴で
    きます様願っております。

    静岡県沼津市我入道東町100-2 加藤芳弘
    -- 加藤芳弘 2019-10-04 (金) 22:01:13

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