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2021.04.09 評論・研究論文「栗の花」投稿者:徳沢 愛子

昔犀川辺りの散歩道に立派な栗の木 があった。五月下旬、白猫の長いしっ ぽのような花をふさふさ咲かせた。強烈な匂いと共に。当初は栗の花とは知らなかった。余りにも花らしからぬ花であったから。 遠くから見ると、うっすら季節外れの 淡雪をかむっているような風情であった。あの頼りなげな細く白い花房と、イガイガ、チクチクの栗とはどうしても結びつかなかった。その上、あの独特の匂い。創造主である神はどういう息図であの空中でたおやかに揺れている栗の花と、イガイガに守られた艶やかな栗を組み合わされたのか。意表をつく自然界の営みである。昔から栗という「西の木」に西方浄 土を重ねた人々は、それを大事にしてきた。大仏開眼のころの行基は、住居 の柱に栗の木を用いたという。それ位栗は存在感があった。   
芭蕉と弟子の曾良は、鋭い視点でその栗の花を詠んだ。彼らは花とも見えない花を、世の人々に逆らって愛でたようだ。「世の人の見付けぬ花や軒の栗」。この花らしからぬ花と、難しい修行を二股にかけたのだ。「隠れ家やめに たたぬ花を軒の栗」。曾良書留のこの初句を芭蕉は「かくれがや目だたぬ花を軒の栗」として詠んだのだが、それを 推敲したのが、初めの「世の人の見付けぬ花や軒の栗」である。隠れ家を消 し、ゆかしさを消し、ただ世の人が気 にもとめない花を「自分は見つけたよ」 と。その一瞬の喜びを表現したのだ。 推敲という言葉は、私にとっては、耳が痛い一瞬の感覚で言葉を掬い上げてしまう、決定してしまうことのあやうさがある。が、でもと思う。一気 の表現も時にパワーがあるのでは?と。

  • 何気なく見ていた栗の花、何気なく食べていた美味しい栗の実、ボーッと生きていてチコちゃんに叱られるまでもなく、いつのまにか無味乾燥になっている自分がいます。「世の人の見つけぬ花や軒の栗」その一瞬を共有できる愛子女史に作者も喜ばれることでしょう。 -- 岸野 みさを 2021-04-11 (日) 20:54:45

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