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2021.11.02 自分史・家族史「戦前生まれの歴史認識(2)」 投稿者:岸野  みさを

「他に方法はないのですか?」と皇太子殿下(現明仁上皇陛下)は述べられました。那須御用邸に疎開されていた中学生の頃、神風特別攻撃隊について報告を受けられた時のことです。

(以下引用 2014.08.21 エッセイ「終わらない戦争」)

 主イエス・キリストを信じる信仰の基に世界を一つにしている真の教会の説教壇で聞いたお話は一つになっている人々を切り離すのに十分なものだった。
 「私の友人はゼロ戦で撃墜されました」。聴衆の殆どは日本人でしたから、空に散って逝った特攻隊員の青年のことを思ったのではないでしょうか。話者の友人のパイロットのことを思った人がいるでしょうか?記録していなかったのでどうしてその話に及んだのか定かではありませんがその一言だけがいつまでも心に焼き付いているのです。

 また、某国のこの教会の地域指導者が日本に来て開口一番に述べたことは主イエス・キリストの教えではなく「私は大日本帝国に日本語を強要され、日本名を付けられて、母国語を学ぶこともできず、自分の本当の氏名を名乗ることすら出来ませんでした」。聴衆の殆どは日本人でしたから水を打ったようになりました。

 私の父はマラソンの選手で痛めた足が原因で2回の徴兵検査に合格しませんでした。彼の愛馬が赤いタスキを掛けられて戦場に送り出されて行きました。

 戦時下に幼児だった私はB29の警戒警報が発令されるたびに親が灯火管制のための電灯に黒い布をかけて皆でジーッと身を潜めていたことを思い出します。

 高校を卒業して東京に出てきたとき汚れた軍服を着た傷痍軍人たちが道路に座って通行人に物乞いをしていました。顔をあげず、ただうつむいて「お願いします」と言っていました。手や脚がありません。私は通りすぎることしかできませんでした。何か分からない怒りのようなものが湧き上がってきました。今思えばそれは国家に対する怒りだったと思います。国家権力の基で戦争に駆り出され、傷つき、命をとりとめても生きる術がない傷痍軍人たち。多少の軍人恩給はあったそうですが…。(引用終り)

「特攻の父」と言われた航空特攻司令長官大西瀧次郎中将は「与えられた条件の中で最大の戦果を挙げ、パイロットの生命を無駄にしないために考え出されたのが神風特別攻撃隊だ」と言っている。えっ?やったことと丸きり反対のことを言っているようだが、気の許せる部下には「統率の外道、あり得ない戦法だよ」ともつぶやいている。

 山本五十六がソロモン諸島ブーゲンビル島上空で撃墜された後、大西瀧次郎に統率の責任が回ってきた。特攻は戦争継続能力を失いつつあった戦争末期の1944年10月フィリッピン戦線で始まり海軍の「敷島隊」5機によって米空母1隻を撃沈した。

しかし戦果は以下の通りだった。
正規空母=0/護衛空母=3/戦艦0/巡洋艦=0/駆逐艦=撃沈13/その他(輸送船、上陸艇など)撃沈=31
メインターゲットの正規空母は一隻も沈んでいない。

 敗戦までに航空特攻での死者は 海軍 2431人、陸軍 1417人、合計3830人と言われているがこの人数には諸説がある。

 軍部が何故特攻を決行したか?という疑問に対して語り継がれているのは、次の2点である。

1,敗戦時講和条約を有利に持ち込むためだった。当時は戦争に敗れたら、植民地や領土分割は当たり前で国体(天皇制)護持が危惧されていた。
2,敗戦後の民族復興のためだった。

 大西瀧次郎中将は玉音放送の次の日8月16日特攻隊の英霊に遺書を捧げ「之でよし百万年の仮寝かな」と辞世の句を残して55歳で割腹自殺を遂げた。発見した部下に介錯を許さず15時間余り苦しんで死んだ。このような責任の取り方をしたのは彼一人で、特攻に関与した他の将軍たちは自分の役割を何一つ語ることはなかった。そして大西瀧次郎は特攻隊員戦死者名簿にその名が記載されている。

 また、大西瀧次郎は「天皇の青年たちが国難に殉じて如何に戦ったかという歴史を記憶する限り日本と日本民族は滅びない」と言い残した。

 後に続いた私たちはこれを語り継ぐ責任と義務を負う。戦後の日本再建は彼らの屍の上に築かれてきたのだ。

 以下、血と涙で綴った証言「戦争」上巻 朝日新聞テーマ談話室・編 からご紹介します。

人間爆弾「桜花」 大分市 末松則雄

人間爆弾「桜花」のことを忘れることができない。アメリカ軍が沖縄本島に上陸した昭和20年4月ごろから、連日のように特攻機が島伝いに低空で沖縄方面に向かうのが見られた。同月中旬頃、数機のグラマン戦闘機に追われた大型機が沖永良部島の北の海中に墜落した。
救助された負傷者5名(うち1名は救助後まもなく戦死)は鹿屋基地から発進した海軍の神雷特攻隊11機の1機の乗員であった。収容後、軽症の先任者が基地へ状況報告するのを聞き、私は初めて人間爆弾「桜花」のことを知った。海軍中尉操縦の「桜花」は、母機を離れ1分足らずの噴射により敵艦に体当たりしたという。
負傷者の看護にあたった私は、人間爆弾と彼らの使命感に接して、いまさらながら、畏怖の念を覚え、戦争の厳しさを一段と感じたものである。当時、日本の南西諸島の制空権はアメリカ軍にあり、昼間は北上するおびただしい数の米軍爆撃機。夕刻や早朝も、厳重な警戒網を突破することは至難な業であった。にもかかわらず、前途有為な20歳前後の若者たちが、特攻隊員として、水面に籾が落ちるように散っていった。(引用終り)

  • とても、勉強になります。 戦争は、いつの時代もどこの国の人も、勝っても負けても悲しい物語があります。 戦争の話しは、涙無くしてきけませんし、胸が張り裂けそうになります。 だから、戦争は絶対にいけない。 そう言い切りたい。 しかし、時として人は愚かゆえに武力でしか解決できない事をしてしまうことを承知しています。 愚かですね。 そして、愚かである事を自分達自身が嫌というほど認識するまで、続けるのでしょうね。 ところが、この戦争もを永遠の観点で考えると、違うものが見えてきます。 後悔と悔い改めと改心です。 人が、心の底から改心するには、血の汗を伴う悔い改めが必要なのかも知れません。 アルマの子アルマのように、改心の後の喜びはいかばかりでしょう。 人は、失敗や落胆、悔い改め、愛、諦めないことなどを経験するためにこの地球にきました。 ですから、失敗はつきものですし、苦しみを付きものです。 犠牲のない成長は有り得ないと、使徒の方々もおっしゃっています。 苦しみを通して、優しさや慈愛、赦すことを学ぶことができます。 きっと、神の王国は酸いも甘いも超えた素晴らしい方々ばかりだと思います。 いつの日か、そのような国に招かれたいものです。 相応しくなるためには、まだまだ試練が続きそうですが…。  -- 牧瀬美代子 2021-11-03 (水) 20:56:53
  • 誤解のないように申し上げますが、戦争で散った方が愚かと、言う意味ではありません。国と国の問題です。 -- 牧瀬美代子 2021-11-03 (水) 21:07:37
  • 主は自国の民の生命と財産、権利、特権、自由を守るために、最後の手段として血を流してでも戦うことを認めておられ、正当であると述べておられる。(アルマ43:9、45-47)(D&C134:11)

    「日本は大東亜共栄圏という幻想に踊らされて侵略戦争をした。戦争を終わらせるのに原爆を投下されたのは仕方がない」と教育された。占領軍GHQのWGIP(War Guilt Information Program)(戦争への罪悪感を日本人の心に植え付ける宣伝計画)による日本統治は効を奏し、自虐史観が真実の歴史であるかのように国民を支配した。その「思想戦」は今日にまで及んでマインドセットが解かれていない。(2015.8.15 戦後70年に寄せてー焼け野原から70年経た転換点 より抜粋)

    マッカーサーが日本の大東亜戦争は侵略戦争ではなく自衛のための戦争だったと後に語っても既に遅かったのです。 -- 岸野 みさを 2021-11-05 (金) 23:05:22

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