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21112201 岸野  みさを

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2021.11.22 自分史・家族史「戦前生まれの歴史認識(3)」 投稿者:岸野  みさを

私は誰でしょう

 私は1945年3月10日未明、300機を超すB29戦略爆撃機を東京上空に飛来させ、木造家屋が立ちならぶ人口密集地のいわゆる下町の上野、浅草、本所、深川など隅田川を挟んだ地域を中心に約2時間半、33万発の焼夷弾を投下した。そして、約10万人を死亡させ、負傷者11万人を出し、27万戸を焼き払い、推計100万人を被災させた。国際法違反の無差別爆撃であったと人は言う。

12日には名古屋、13~14日には大阪などでも多くの死者を出し、7日目に停止命令を出した。良心の呵責によるものではなく、太平洋全域に備蓄していた爆弾を全部使い果たしたからである。

呉、神戸、西宮、岡山の68・9%、徳島の85%と半年の間に日本の計67都市を焼き払った。

8月1日から2日にかけて私は最後の空襲を富山、長岡、八王子、水戸に行った、
富山市では民家消失率99・5%で全国一となり被災者11万人、死亡2700人となっ
た。

 この無差別爆撃による民間人の死者は全国で少なくとも40万人以上だ。木造家屋を燃えやすくするために特別に製造開発実験したこの焼夷爆弾(パナーム弾)は約16万トン使用した。
ただ、死亡者の正確な数字を把握している自治体は少なく、国による実態調査も不十分なため、全容はいまだ明らかになっていないそうだ。

 東京大空襲では我々は風が強く吹く日を選んで延焼を成功させた。

8月6日 広島に原子爆弾投下。
8月9日 長崎に原子爆弾投下。
8月14日 日本はポツダム宣言受託決定。
8月15日 終戦。

(以下ウイキペディアより引用)

★私は1964年12月7日、日本に返還されたばかりの入間基地(旧・ジョンソン基地)で、勲一等旭日大綬章を浦茂航空幕僚長から授与された。理由は日本の航空自衛隊育成に協力したためである。12月4日の第1次佐藤内閣の閣議で決定された。推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎の連名で行われた。防衛庁から首相佐藤栄作、賞勲局へ叙勲が適当であるという説明があった。

 私が東京大空襲や原爆投下を行った部隊の指揮官だったことから授与に対し批判も大きく、現在でも「勲章は返還するべきである」と唱える者もいるそうだ。
国会では叙勲に対し疑問視する声があった。東京大空襲や原爆から叙勲は不適切ではないかという質問に佐藤栄作は

「今はアメリカと友好関係にあり、功績があるならば過去は過去として功に報いるのが当然、大国の民とはいつまでもとらわれず今後の関係、功績を考えて処置していくべきもの」
と答弁したそうだ。(以上引用終り)

 私に勲章を推薦したのは、旧帝国海軍大佐で、真珠湾奇襲作戦を立案し、戦後は航空自衛隊の初代航空総隊司令や、航空幕僚長を務めた事のある自民党の参議院議員「源田実」氏である。
当時の防衛庁長官「小泉純也」氏も、源田氏に同調して私への勲章の授与に協力したと言われている。
しかし、実はその2年前に「源田実」氏は、アメリカから「勲功章」を授与されており、その返礼に私を推薦したそうだ。
また、真珠湾奇襲作戦の立案者である「源田実」氏に、アメリカが勲章を授与したのは、アメリカは真珠湾攻撃について、もはや過ぎ去った過去として終わりにするという意思表示であり、日本が私に勲章を授与したのも東京大空襲について、終わりにするという意思表示であり、お互いにこの問題について決着をつけたという事を示す為の授与だったとも聞いている。

 最高ランクの勲一等の授与は天皇が直接手渡す“親授”が通例である筈が、昭和天皇は私に親授してくれなかった。

 後年NHKが本土空襲の特番を作る際に私にインタビューをしたが、無差別爆撃について質問したので私は黙ってその勲一等の勲章を見せたのだよ。

 後年、私に対して「日本の爆撃に道徳的な考慮は影響したか?」というインタビューに私は次のように答えた。
「軍人は誰でも道徳的な側面を多少は考えるものだが、戦争は全て道徳に反するものだ。
戦争を終結させるためにはそれ以外の選択肢はなかった」と。

★また、朝鮮戦争でも私は、「朝鮮の北でも南でも全ての都市を炎上させた。我々は100万以上の民間人を殺し、数百万人以上を家から追い払った」。

 日本の歴史学者も言っているではないか。『日本はいずれにせよ降伏するしかなかった。しかし、焼夷弾による大空襲と原爆投下の衝撃のおかげで日本は8月に降伏したのだ』
焼夷弾や原爆がなかったら日本は降伏しなかった。そして、日本がもし降伏しなかったら、ソビエトが日本本土に侵攻し、続いてアメリカが侵攻し、日本は最終的にドイツや朝鮮半島のように切り裂かれただろう、と。

★キューバ危機
1960年代…米ソがにらみ合い、あわや全面核戦争勃発という一触即発の時に、私は核を積んだ爆撃機をキューバ領空ギリギリで待機させていた。90秒で落とせたのにジョン・F・ケネディが許可しなかった。

★ベトナム戦争
1960年12月ジョンソン大統領の下でベトナム戦争が始まった。
我々は1961年から1971年までの10年間、ベトナムのゲリラ達が隠れる場所ジャングルを枯らす枯葉剤作戦を行った。

 植物を枯らすダイオキシンを大量に含む有毒化学物質を、空からジャングルに向かって散布しジャングルを根絶やしにする作戦だった。
枯葉剤は人畜無害ということだったが、戦争後、ジャングルにいた大勢のベトナム人やアメリカ兵が後遺症(死産、重度の障害児や奇形児の出産、年少者の癌など)を発症した。

 アメリカでは1963 年には奴隷解放 100 周年を迎え人種差別撤回運動、公民権運動が活発していたこともあり、これに拍車をかけて反戦運動が高まっていった。そして1973年3月29日ニクソン大統領がベトナム戦争終結を宣言した。

 以上が私の戦歴である。

私はカーチス・エマーソン・ルメイである。

(Curtis Emerson LeMay, 1906年11月15日 - 1990年10月1日)
アメリカ合衆国の軍人、最終階級は空軍大将。第5代空軍参謀総長を務めた。

  •  戦争は絶対にしてはならないものです。強く言いたいです。
     どう言い訳しても始めるのも終わらせるのも人で、言い訳はできません。もちろんそこにはサタンが存在します。
     今も変わりませんが、政治とは誰のためのものですかね。 -- 丸山 幹夫 2021-11-22 (月) 18:15:25
  • 戦争は、よくない。誰もが知っているのに、どうして繰り返すのでしょうか。サタンが人の心を煽るのでしょうね。戦争は、人を変えます。絶対に、嫌です。でも、悲しみ苦しみ悲哀、切なさ、愚かさ、命の大切さを知るのもこの時期だったように思います。だから、神様は止めに入らないのかもと、思うこともあります。難しくてわかりませんが、戦争は嫌だということは言えます。 -- 牧瀬美代子 2021-11-22 (月) 21:40:42
  • コメントありがとうございました。「時満ちる時代の教会歴史」P、491に「聖徒と第一次世界大戦」の記事を既に読まれましたか?1914年にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦に諸外国の聖徒たちは愛国心に基づいて自国の呼びかけに応じた。英国のパジー支部では
    兵役の年齢に達している人で、政府および軍需産業関連の仕事についている人以外の全員が兵役を志願した、ということです。ユタ州でも割り当てを上回る24382人が徴兵を志願し、ジョセフ・F・スミス大管長の息子たち6人も兵役に就いたそうです。 -- 岸野 みさを 2021-11-22 (月) 22:07:09
  • 生きづらさを抱えて自分の人生をリセットして新しくしたいから、戦争が起きればいいのに、と望んでる子たちがいる、と前に何かで読んだ時、知らないということの恐ろしさに衝撃を覚えました。戦争を経験した方でも、その悲惨さのトラウマ故に固く口を閉ざし戦争について語れない方もいて、その悲惨さ故に次世代に伝えなくては、と伝えてくださる方がいてーどちらからも戦争の悲惨さを感じます。経験したことがなくても歴史から学ぶこと、そして現在に未来に生かすことが私たちにできることの一つですよね。 -- エルフ 2021-11-28 (日) 16:53:55
  • 確かに「知らない」ということの重大さを感じます。戦争だけでなく何事につけても知らないという「無知蒙昧」で、いい若いもんが、ただ時に流されて青春を生きるのは残念で仕方ありません。諸外国にはあって、日本には徴兵制が無いので自国の防衛にも関心が向かないという人々もいます。 -- 岸野 みさを 2021-11-28 (日) 17:44:44

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