穀粒(こくつぶ)会員のための、創作および出版支援サイト

23031901 岸野  みさを

トップページへ 自分史・家族史トップへ画像の説明

2023.03.19 自分史・家族史「山のあなたの」 投稿者:岸野  みさを

かつて私にもあった思春期の頃、名訳上田敏、作者ドイツのカール・ブッセ「山のあなた」の詩にある「幸い」というものについて深く考えたことがありました。

「山のあなた」

山のあなたの空遠く

「幸い」住むと人のいう

あゝ われ人ととめゆきて

涙さしぐみかえりきぬ

山のあなたになお遠く

「幸い」住むと人のいう

私は家の裏にある畑の作業の手を休めて野っ原に寝そべって、流れる雲を見ていました。山のあなたに「幸い」は無かったのだと悲しく思い寂しく感じました。そんな思いを慰めるかのように空を流れる雲に「おうい雲よ」と叫んでみました。山村慕鳥の歌を思い出したのです。。

おうい雲よ

ゆうゆうと

馬鹿にのんきそうじゃないか

どこまでゆくんだ

ずっと磐城平の方までゆくんか

この雲はこれほどまでに「幸い」を運んでくれているではないか。青い空だってそうだ。鳥のさえずりや風に揺れる傍らの野の花だって、作物を育てる土だって、自然は「幸い」そのものではないか。(最も近年は人間の活動による自然環境の破壊は甚だしいが)そうだ、と私は思った。チルチルミチルの「幸福の青い鳥」がある。ベ
ルギーの詩人であり劇作家のモーリス・メーテルリンクの童話がそれだ。

兄がチルチル妹がミチルの兄妹は魔女のおばあさんから孫が病気なので幸せの青い鳥を捜してきて欲しいと頼まれました。二人は「思い出の国」や「夜の御殿」に行って青い鳥を見つけました。喜んで持ち帰ろうとしますがその国を出ると途端に青い鳥は変色して死んでしまいました。「ぜいたくの御殿」や「未来の国」に行って見つ
けた青い鳥も同じ結果となり、どうやっても青い鳥を持ち帰ることができません。

「起きなさい、今日はクリスマスですよ」というお母さんの声で二人は目が覚めます。

二人は部屋にある鳥かごの中に青い羽根を見つけます。そして二人は本当の幸せは身近にあるということに気がつき、それは気づかないだけで傍にあったのです。ちなみに二人が飼っていたのはハトだったそうでハトは幸運の象徴ですね。

 時は過ぎ去り、23歳の時吉祥寺の駅前で宣教師から末日聖徒イエス・キリスト教会のチラシをもらって、その週の日曜日に「暇だから行ってみよう」と教会に向いました。礼拝堂に入ると、荘厳なオルガンの演奏が聞こえてきて、人々が広い礼拝堂に三々五々着席していて、静かに立ち話をしている人たちもいました。同時に「え
っ?この雰囲気何?」と感じた私は後になってそれが霊的な雰囲気だということが分り、御霊を感じたのだと分かりました。すぐに長老たちがレッスンの約束を取り、最初に「ジョセフ・スミスの見神」を学びました。次にモルモン書の宿題を読んでは毎週姉妹宣教師からレッスンを受けて、バプテスマの水を潜ったのは次の年の1964
年11月8日でした。58年前のことです。当時は求道者の期間が一年位は当たり前でした。モルモン書の方はよく分かりませんでしたがイザヤ書が出てきたり、新約聖書の山上の垂訓が出てきました。(第3NE12章)そこで有名な9つの「幸い」が登場しました。

第3NE12:3-11;マタイ5:3―11;マルコ1:16―20;ルカ6:20―22、

(以下マタイ5:3-11)

こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。

あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。

心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。

こころの貧しい人とは「霊的なものを常に求めている人々」と解説されています。

また、ここでは一つ一つの教えがそれぞれに、前に述べられている教えを基にして組み立てられているそうです。

カール・ブッセの「幸い」からイエス・キリストが教える「幸い」には開きがありますが、この3-11はBeatitudesと呼ばれその意味は「幸福な人」または「祝福された人」だということです。

Blessed are the poor in Sprit のBlessed 「さいわい」はHappiness「幸福」以上のものを意味していて、この山上の垂訓は私たちの人生の青写真であり、完全になろうとする人はこうしてキリストの力を得ることができると教えています。

母が健在だった頃、母に幸せな半生だったか質問すると、母は「あなたたちが幸せなら、それが母の幸せなんだよ」と言いました。子どもの目から見ても様々な苦労を重ねてそれを背負って生きてきた母だったのです。

「アダムが堕落したのは人が存在するためであり、人が存在するのは喜びを得るためである」(2NE2:22-25)「私たちが地上に来た目的は骨肉の体を受けるためであり、幸福を得るためである」そしてD&C93:33では「人は霊である。元素は永遠であり、分離しないように結合した霊と元素は、満ちみちる喜びを受ける」そして
この「満ちみちる喜びはイエス・キリストを通してのみ得られる」(ヨハ15:11;D&C93:33-34;101:36)

そして「この世ではあなたがたの喜びは満たされないが、わたしにあってあなたがたの喜びは満たされるからである」(D&C101:36)


認証コード(3056)

いただいたコメントは即座に反映されないことがあります。送信後は30分以上お待ちいただいてからご確認ください。

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional