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14053101徳沢愛子

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2014.05.31 自分史・家族史「寺町一直線」第一回竹多文学賞優秀賞受賞作品 
投稿者:徳沢 愛子

O Divine Redeemer - Mormon Tabernacle Choir
 
寺町一直線(第一回竹多文学賞優秀賞受賞作品)
 
 
徳沢 愛子

 いつか必ずやってくる兄弟との別れ。それは一本の電話から始まった。末弟の国夫からである。「孝次兄が末期の肝臓癌になった」
 孝次はまだ六十七歳である。国夫はいつもと違う四角ばった言い方をした。庭の松の枝が一瞬、身震いしたように動いた。不思議な感覚が体の真ん中を走った。
 「兄貴は俺の肝臓を半分くれと言ってきた」
 憮然とした彼の気持ちが電話口から伝わってきた。エアコンの効いた部屋にいてもなお汗ばむ八月の夕方、うすものの服の下で、水のような冷えびえしたものが流れていった。
 受話器を置いた途端、耳底に大きく聞こえだしたのはカナカナ蝉の鳴き声だった。カナカナカナ カナカナカナ その湧き上がる声は焦げ臭い夕焼けに絡みついていった。それは先祖たちの住む冥界からの言伝てのようであった。私は長い間、茜色の窓側に佇んでいた。

 その年の三月、東京在住の二人の弟たちと金沢在住の姉と私の、仲良し四人で京都の旅をした。国夫の発案である。赤ん坊の頃から姉と私は母の代理として、彼らに世話をやいた。ミルクの授乳、おむつ替え、川でのおむつ洗い、首のすわらぬうちから銭湯へおんぶして行き、入浴させる等々に対するお礼の気持ちを表したいと言うものだった。二泊の温泉の旅のご招待である。私たち姉妹は大いに盛り上がって「何ちゅうりくつなことを言う弟やろ、有難いねえ、行こ行こ」と出かけたのである。

 その旅に弟の孝次が「是非ぼくも」と参加した。彼は自前の旅である。公務員的な国夫と違って、孝次は芸術家タイプ、お酒が大好きであったせいか姉たちに旅をプレゼントするような余裕はなかったが、いつも人を笑わせ楽しませる特技を持っていた。我々四人は京都駅で落ち合った。群衆の中でもふる里の雰囲気を漂わせる、背丈の高い彼らをすぐ見つけることができた。恰幅のよい国夫、ひょろっとしたスリムな孝次、二人もまた仲の良い兄弟であった。

 孝次は特別お洒落で、ベレー帽がよく似合い、白髪まじりの口髭もよく手入れされ、着るものも英国紳士のようであった。学生時代から本来のデザイナーの仕事より演劇に夢中になったり、六十七歳の今も会社勤めのかたわら、演劇を楽しんでいた。なかなかのダンディな弟であった。
我々は京都の名所旧跡を精力的にまわり、疲れればカフェテラスで休憩した。たった一杯の飲み物で一時間もそれぞれ悩みや本音、胸の内の澱(おり)を洗いざらい吐き出し、笑い合った。非日常の小さな旅は慰め合い、励まし合う明日へのカンフル剤であった。それが孝次との最後の旅になるなんて、我々は夢想だにしなかった。

 そして八月十四日、奇しくも亡父の命日、国夫からの唐突な電話が入った。青天の霹靂(へきれき)とはこのことか。突如、死神が私の前に仁王立ちになった。親の死とは違った感覚であった。親が生存中は、死と自分との間に頑丈な壁が聳(そび)え立っていた。死の風は少しもこちらには吹いてこなかった。それが親の死によって壁は崩れ、一挙に冷風が吹き始めた。追い打ちをかけるように弟の死の影は私にも迫り、吹く風は顔に強く、髪さえ逆立った。

 孝次は余命三ヶ月とは知らされずに入院した。当初、私たちが上京して見舞うと、希望に満ちてVサインを出すやら、冗談を言って笑わすやら意気軒昴であった。友人や会社の同僚たちに挨拶状を出して「ちょっと今、入院しているけれど、治療して退院した時には大いに語り、大いに飲み交わしましょう」と、明るさと元気に満ち溢れていた。一ヶ月後、再び上京し見舞うと、孝次はギョッとするほど痩せて、老いた鶴のようであった。私たちに話があると言って、談話室に案内する彼は秋風の中に佇む孤独な、悲哀にまみれた後姿をしていた。胸か潰れるとはこのことである。

 「この病院にいたって直るどころか、段々悪くなっていく。ここを早く出ないと大変なことになる」と、開口一番早口に訴え、大きな封筒から書類を出した。命を孕んだ情報紙の白さと、弟の異様に大きい手のその白さは私の眼を鋭く射した。窓から朝の光が贅沢にテーブルに注いでいた。
 ふと、そこに私は確かな希望を見ていた。〈患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを知っているからである。そして、希望は失望に終わることはない〉(ローマ人5:3-5)。「実はインターネットで肝臓癌治療法の最新情報を見つけた。僕はこれに命をかけてみようと思う。完治した事例もある。明日にでも退院する」
 頬骨の浮き出た青白い顔を紅潮させて、彼は断固として熱く語った。「あなたの命だから、あなたの選択でいいんじゃないの、私も応援するよ」

 その時、私は自分に誓った。徹底して最後の時まで彼に逆らわない、寄り添って行こうと。末期であれば、抗癌剤はただ無暗矢鱈に痩せ細った肉体を痛めつけるだけであろう。そのヨード療法とやらの情報が胡散(うさん)臭いものでなければよいが、孝次の体に適合し、効果を現せればいいが、私はただ祈るような思いで賛同した。

 それから東京と、金沢で熱いメールが往き来した。孝次のメールはひたすら命についてであった。妻でもなく、子でもなく、孫でもなかった。今や彼の人生は自分のためだけであった。ヨード療治の飲み薬は月四十万円もかかるという。彼の息子らの住むアパートは貧しい彼らには高い家賃で、大変であった。しかるに、である。そのことを知っている国夫は、口角沫飛ばして抗議した。「男らしく覚悟したらどうだ。国から認可もされていないヨード治療とやらに大金をはたくのはやめてほしい。息子たちにそのお金を援助したらどうだ。」第三者が聞けば何と残酷な弟だろうと思われるかもしれない。然し国夫はサラリーマンの二十代に肺侵潤で長い闘病生活を送り、その最中に純粋日本原理を模索した憧れの三島由紀夫が、割腹自殺した。その後、国夫は自衛隊に入隊、アラブに一佐として赴任、きな臭い硝煙の世界をのぞき見、紛争のサラエボヘ赴任することを希望さえした。命は大儀のためならいつでも捨てたいという、憂国の士であった国夫には、徒(いたずら)に命に固執する兄の思いが理解できなかったようだ。 
 お酒もタバコもやらない謹厳実直な国夫の思想も私にはよくわかるが、今、死にゆく者としての孝次と、そうでない国夫とは天と地ほど思いには差がある。生きることを最大目標とする者と比較すること自体、不謹慎なのではなかろうか。

棺一基四顧芒々と霞みけり
            死刑囚 大道寺將司

 この句は孝次の心情に通じるものがあった。医者の制止も、妻や子や孫の言うことも聞かず、自宅に帰ってきた孝次は、抗癌剤は一切拒否してヨード治療一つに絞り、医者である長兄や甥の助言にも一切耳をかさなかった。ひたすらパソコンに向かい、ヨード治療を施す医者と交信し、小瓶に入った茶色い液体を宅配してもらって飲み続けた。

 或る日、とうとう国夫は「ささやかな蓄えをドブに捨てるな。もっと家族のことを考えろ」と孝次に怒りをぶつけた。それに応戦して、「構ってくれるな。自分の命は自分で守る。もう弟ではない! 縁を切るっ」と宣言。命の沸騰点にいる孝次は国夫と激しく対立し、平行線であった。

 国夫の怒りの矛先は姉の私に向けられた。「姉さんが甘やかしている。それが本当の姉の態度か。弟に正しい道を教え説得するのが姉の責任じゃないのか」と。口調はエスカレートし、怒りを含んだ速射砲をガンガン射ってきた。私はどう言い様もなかった。ただ黙って聞くしかなかった。心の中で「私は孝次の味方、孝次のサポーター」と呟いていた。三人三様 我々兄弟はそれぞれ頑固者であった。「絶対死なない」とのたうつ弟を私は励まし、支持し続けた。

 発病から四ヶ月半、私たちは三度目の上京をし、孝次の自宅を訪ねた。彼は殆ど骸骨になっていた。お腹だけが異様にふくれ、腹水がたまっている状態であったが、精神は一向に衰えを見せず、次の薬の宅配が遅れていると言って、パソコンの前に座ったりしていた。
やはり辛かったのか、すぐにベッドに横たわった。私は腰が痛いという彼の背中や、腰をさすり続けた。腹水でブヨブヨになったお腹や腰の回りの感触は、手の平を通って私の心を打ちのめした。「かわいや、かわいや」と呪文のように唱え、泣きながら摩り続けた。

 君の手をひいて銭湯へ行ったではないか。ふくらんだ焼餅のように爆発寸前の脱腸、それをやさしくもみほぐしながら少しずつ足の付け根の奥へとおさめたではないか。たえず流れ出る青洟(はな)汁を新聞紙でふきとったではないか。いじめっ子から君を助けるために、なりふり構わず追いかけ、平手で頬を打ち、やっつけてあげたではないか。お粥をひと匙ずつ、フーフー冷ましながら、熱に浮かされた君の赤い唇に運んだではないか。君は大器晩成型であった。君は母親の長い話によく耳を傾けていた。

 「ああ、気持がいい」、と目をつむっている孝次の顔は平安であった。不思議と癌特有の強い痛みはないようであった。救いであった。
 その日の夕方、私たちが帰った後、きゃるこ(注1)のようなお腹の水を抜いてもらうために、彼は仕方なく入院した。腹水を抜いて楽になった孝次は、帰っていく妻の背中に向って「頑張るぞォ」と叫んだのであった。
 その直後、突然の動脈瘤破裂。孝次は胸に真っ赤な血の花を咲かせて絶命した。知らせは私たちが金沢に到着直後であった。
 辺見庸の言葉を借りれば「生きるとは、たぶん、生きる主体が生きてあることをどうにかして証そうとすることである。なにかを証そうとするあえない試み、それが生ではないだろうか……」と。

 ロミオになったり、地球温暖化をテーマに絵本作りをしたり、ヨード治療したり、すべてあえない試み、どれも自分を表現したい、生きている証を伝えたいという、生きることへの強い衝動ではなかったのか。
 それによって孝次は、己の人生を豊かに演出してきた。今、国夫を初め皆んなから「幸福者」と呼ばれている孝次は、大気圏の外を蒼々として飛翔しているに違いない。それは洒落れた孝次の人生にふさわしい、寺町一直線の生き方だった。(注2)

門松や雪これでもかと孝次の忌      
         愛子 個人詩誌「日日草」64号より転載(2013年8月20日発行)

       (注1)「きゃるこ」は金沢方言でカエル
       (注2)「寺町一直線」は金沢方言で一徹者
 
 

  • 文字の間から、光や感情、情景が忽然と現れるような、そして深い苦しみと悲しみを癒す詩的な表現が随所にあり、人生の空しさと希望を共有することができました。 -- 昼寝ネコ 2014-05-31 (土) 12:56:32
  • 徳沢愛子姉妹
    「頑張るぞオ」と叫んだのが辞世の言葉だったなんて、事実は小説よりも奇なり、を感じました。ご立派な最期を遂げられたのですね。日に日に衰弱していく肉体に反比例するかのように生きようとする強い意志と希望を抱いて幕を通過して行ったのですね。姉上様の孝次様に対するこれ以上のレクイエムがあるでしょうか。仲良し4姉弟の幼いころからの絆は珠玉の玉手箱となって再会の日まで大切にそれぞれの心の中に収められることでしょう。
    -- 岸野みさを 2014-05-31 (土) 18:23:01
  •  「寺町一直線」読ませていただき、心から感謝いたします。
     私は、町田ステーク会長会の第1顧問として息子さんとともに神様の御業に働かせていただいているものです。息子さんは、私よりも一回り年下ですが、たくさんのことを学ばせていただいています。徳沢会長の持っていらっしゃる素晴らしい特質がこれを読ませていただいてよくわかる気がしました。
     私も、このお話が分かる年齢になりました。とても嬉しく思っています。理屈ではない、それぞれの思い、お母様の弟さんたちへの愛を感じました。ありがとうございました。 -- 丸山 幹夫 2014-06-01 (日) 20:03:30

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