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14060801増井重治

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2014.06.08 自分史・家族史「父母を語る-母編」 旅立ち  投稿者:増井 重治
 
「父母を語る-母編」 旅立ち
創作フォーラム穀粒一周年記念家族史
 
 
増井 重治
 
 今日はわざわざ故増井君子に現世最後のお別れにおいでくださり心からお礼申し上げます。母は八王子市内仁和会病院で息を引き取りました。前日までわずかではありましたが意識があり呼びかける声に応えていたのですが、翌日の朝に急変し、あっという間に逝ってしまいました。すい臓がんから肝臓や肺に転移し、肺の機能はだいぶ低下していました。酸素吸入を続けていましたが、逝った後の顔は苦しみから解放されてまことに穏やかな表情をしていました。
 母は群馬県鬼石という町で産声をあげました。鬼石は庭石で有名な町で林業も盛んな土地でした。乳飲み子のときに一家揃って東京渋谷に引っ越しました。その後は、父鈴木秀治の仕事の関係で、大塚、板橋、池袋、神田を転々とし、長女のため生まれてくる弟や妹たちの世話を看ました。結婚するまで上野松坂屋の呉服部で働いていました。太平洋戦争という激動の時代にあって、機銃掃射や横浜大空襲に遭い命からがら生き延びました。
 結婚して居を構えた板橋界隈は強制疎開で引き払い三鷹に移りました。終戦後夫重久が横須賀の海軍設営隊から復員し男子をもうけました。夫の女性問題で苦悩の日々を送り、わが子を手放そうとしたり自殺も考えました。その後も夫の家庭内暴力、金銭問題、病気、流産と次々襲ってくる苦難にもめげず、ふたりめの男子を授かりました。
 夫を最後まで看取り、亡くなる前はわたしの家族とともににぎやかな生活を送りました。孫に囲まれ、ひ孫も自分の腕に抱くこともでき幸せな老後をすごしました。子どもたちの勧めで教会に入り、聖なる衣服を身にまとい荼毘に付されます。84年歩んできた母の人生を思い返してみれば波乱万丈の道でしたが、霊は今は次の世で安息についていると思います。来世で再会した夫に文句のひとつ、ふたつ言ったかどうか知る由もありませんが、きっと先に逝った多くの方々と楽しく語り合っている情景が目に浮かびます。
                      平成14年9月14日

 あれから12年
 おばあちゃん、今は孫が11人、ひ孫も11人になりました。
 みんなの名前覚えられますか?
 
 『亡き母や 海見る度に 見る度に』 小林一茶

 
 

  • 私たちの母親の年代は、苦労が多かったと思います。でも、こうして残された息子さんが、自分の苦労を分かってくれいる、と思えるお母さんは、幸せですよ。札幌で独居の私の母は89歳ですが、やはり辛酸をなめた人生でした。「葬式を出しに行く体力がないから、死ぬのはしばらく待っててくれ」と、毎年言い続けています。笑い転げています。 -- 昼絵ネコ 2014-06-09 (月) 17:16:27
  • 増井重治さま
    御父上のことではございませんのでお断りしておきますが、一般的に、この世でやりたい放題やった人が霊界に逝ったからといって簡単に別人になれるのでしょうか?福音は否、という理にかなった教えであることを学びました。たとえ、必要な儀式を生者が身代わりに現世で行ったとしても、福音の掟を守ることが依然本人に要求されている、と思うと人の思いとは異なる、慈悲深い神の摂理を感じます。 -- パシリーヌ 2014-06-09 (月) 18:25:31

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