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2015.03.03自分史・家族史「3.11 私の記録6か月」 投稿者:岸野みさを

The Best of Handel
 
3.11 私の記録6か月
 
                      
岸野 みさを

 東日本大震災の被災者の皆さまの、苦難を越えて再生と復興に懸命に取り組んで来られたこの4年間の労苦を慮り、お見舞い申し上げます。ほんの少しでも何かのお役に立てればと、またこのプレート境界上にある地震列島に生きている私たちが、この大震災の犠牲と教訓から多くを学び、更なる災害に備えて地域防災計画や訓練に役立てることが出来ればと思い、書き留めておいた記録をみなさまと共に分かち合いたいと思います。

 PM2:46分頃、事務所の2階でパソコンに向かって作業をしていた時に尋常でない揺れとガタガタゴーという音が続いた。危険を察知して素早く机の下に潜った私はヘルメットが必要だ!机の上に置いてある携帯電話を手元に引き寄せられるだろうか?しかし視界に入るガラス窓は激しく横揺れが続いてガラスが飛散寸前になってくる。更に揺れが大きくなったとき、思わず「神さま!」と心の中で3回叫んだ。夫の名でもなく、子どもや孫の名でもなかった。するとたちまち「えっ?えっ?」柔らかい不思議な真綿みたいな空気みたいなものに、すっぽり包み込まれたのだ。…御霊の守りであることを理解するのに時間はかからなかった。机の下の狭いところで頭を下げていたのに、更にまた、自然と頭が垂れてしまい、主に感謝の言葉を繰り返していた。余震が続く中、船酔い状態で漸く夫の携帯に繋がった。「大変だ!津波が来る!大津波だ!」夫はまるで見ているかのように電話の向こうで叫んでいた!死者行方不明者24000人。無念の最後を遂げた彼らは自分の霊の父の名を叫び求めただろうか?父の名を叫び求めさえすれば、御霊に包み込まれて、境界の幕を平安の内に超えたであろう!「神を見出すことができるのは神を尋ね求める者であり…」(J・S訳イザヤ65:1-2)(2011.12.1発行 シオン八王子40周年「植えられた者」より抜粋)

 東日本大震災は幅200Km長さ500Kmに渡る6つの震源域が6分間連動したので未曾有のものとなった。モーメントマグニチュード9、0。(地震観測史上最大)揺れのピークは約35秒の間を空けて2回あり重力の約3倍の加速度に達した。リアス式海岸で美しい景勝地の一帯が日常の平穏から一瞬にしてがれきの山となり、10M超えの大津波が人も街も呑みこみ陸前高田市や、石巻市、気仙沼市など岩手、宮城、福島3県の主要な港町は壊滅状態になった。役場や警察、消防などの行政がまるごと呑まれて何も機能しない。

 宮城県多賀市の多賀城駐屯地の自衛隊は地震発生を受けて出動しようとした矢先、津波に呑まれて水に埋まった。救援車両の列がそのままだ。救援活動の重荷と労苦の中で働く疲労困憊の、無口の隊員たちは、後で分かったことだが27日までに19300名の救助を行い、4150体を収容した。(防衛省HPより)10万人余りの自衛隊員が従事した。

 都内では帰宅難民が発生。都内の自治体計1030カ所の施設が提供されて94000人が利用した。5000人を都庁舎が収容した。東京ディズニーランドとディズニーシーでは約2万人が足止めされて一夜を過ごし、次の朝から最寄りの地下鉄の駅までバスを運行し、大半は帰路についたという。

 在日アメリカ海軍、海兵隊、空軍の統合軍24000人の将兵が救助に配置され、トモダチ作戦と名づけられた。新聞一面に掲載された彼らの集合写真を見て、目が澄んでいて綺麗な顔だと思った。To the Rescueに従事しているとこのように聖められるのかと思った。この予算は最大で8000万ドル(約68億円)だという。

 3月12日 福島第1号機原発の水素爆発で建屋の壁が無くなった。作業員4人けが。原子炉は内側から圧力容器、格納容器、原子炉建屋の3つの壁で守られている。1号機はその建屋の壁が吹き飛んだ状態になって、放射性物質を閉じ込める機能を失った恐怖が福島県大熊町、双葉町を襲う。

 3月14日 Ⅰ号機に続いて3号機の爆発。炉心溶解と放射線大量飛散。AM6時過ぎの爆発で東京でも10時過ぎには通常の20倍の放射性物質、ヨウ素やセシウムを検出。東海村の臨界事故で救急治療に当たった前川和彦東大名誉教授は「核爆発ではなく、放射能が含まれる霧が漂っている状態で、その霧が通りすぎるのを待つ、花粉症同様の対応を取ればよい」と述べた。この原発事故で約8万の10都市に住んでいた人々が避難民となった。地震、大津波、火災、放射性物質の拡散の大規模な複数の大災害が広域的に連続的に発生し未曾有の事態に直面している。

 後日、宣教師たちは全員関西などの他の地域に転任。母国の指示に従って、母国に帰った人達もいる。

 被災状況が報道されるようになった。テレビでは濁流と化した津波が建物を粉々にし、その残骸や車を押し流し、道路や田畑を呑みこんでいく惨状が映し出された。2004年のスマトラ沖地震を思い出した。仙台港のコンビナート群の火災。石巻市では壊れた公民館の上に観光バスが乗っていて、ビルの2階に船が突き刺さっている。
 宮城県南三陸町の防災対策庁舎の故遠藤未希さんの避難勧告の呼びかけの声が防災マイクから流れ、小雪がちらつく美しい港町に19mの津波が襲ってきた。3F建ての防災対策庁舎で遠藤さんを含む39人の町職員が絶命し、屋上に逃れてアンテナにしがみついていた10人が生き残った無残な映像に絶句した。北上川沿いにある宮城県石巻市大川小学校(児童108人)児童74人教職員10人死亡行方不明になる悲劇。

 新聞では小学校の屋上に避難した宮城県東松島市の住民たちの写真やロープ伝いに集団で救助される人々。くの字に折れ曲がったJR仙石線の車両等々が掲載されている。

 3月16日 天皇陛下から被災者への励ましのお言葉(玉音放送)
www.youtube.com/watch?v=fyWGSW0ULRk
(前半略)
「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、様々な形で少しでも多く分かち合ってくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また,国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。」

 16日 今日は茨城で震度6の予震があった。
福島原発は最悪の事態を防げるかどうかギリギリのところにいる。日本の地震対策を不安視して、IAEA(国際原子力機関)は日本の原発について「耐震の安全基準が過去35年間で3回しか改訂されていない」「近年のいくつかの地震は一部に原発の設計基準を上回っている」と発表したことを英紙デーリー・テレグラフは報じた。
 16日現在死亡4957人、安否不明15220人以上、避難民523288人。日銀の資金供給は5.5兆円だという。

 3月18日 午前3時、東京消防庁から特殊災害対策車を含んで30隊139名が要請を受けて出動。翌19日午後2時5分からハイパーレスキュー隊(1996年設置)は巨大な放水能力をもつ消防車(スーパーポンパー)で危険な徴候を示していた3号機の使用済み核燃料プールに(プール容量1,500トン)連続放水を開始。この連続放水は翌20日午前3時40分まで約14時間弱続いた。総放水トン数は約2,430トン。

 18日 菅直人総理は会見で「117カ国と29の国際機関からお見舞いの言葉を頂いた。戦後最大の危機に対して挫けるわけにはいかない。自分たちに出来ることは何か。自分にできることをやってほしい」と述べた。9:50私の住んでいる松子舞もはじめて計画停電になった。今まで、ここだけは電気が通じていたのに孫の卒業式だというのに始めての停電だ。

 3月20日 町田ステーク八王子ワードの畠中耕三兄弟は居ても立ってもいられず、寝袋や食料をザックに詰めて仙台市に駆けつけた。20日間現地で寝起きしてみて、この惨状に対して何が必要であるのか、自分は何が出来るのかを考えて被災者支援NPOこころの相談室フォレストを立ち上げた。傾聴ボランティアやアロマハンドマッサージ、ミニコンサートなどを導入して避難生活を送っている被災者の痛みと困難に向き合った。

 こころの相談室フォレスト企画     2013.9.7     八王子ワードに於いて 
被災地の今―畠山卓也石巻市北上中学元校長講演会―より抜粋                        

 配られた資料を読んで、初めに被災者の皆さんのお気持ちをここに伝えたいと思いました。沢山の人たちの文章や、短歌などを原文のままお知らせしたかったのですが、残念ながら著作権の関係で私(岸野みさを)の劣文にて内容をまとめて報告させて頂きます。

 自分たちの手で復興を、というテーマで亘理町の中学2年生のB君は、仮設住宅の生活は薄い壁一枚を隔てただけの部屋で、テレビの音を小さくして、家族の会話も減らして勉強する時は机がきしまないようにして使う、と書いてありました。

 津波の直後、岩城の海に浮かぶようにして一畳の畳の上に一人のおじいちゃんが座っていました。消防団員がロープを投げるとおじいちゃんはそのロープをしっかり握りしめて、はじめは近づいたのですが、やがて力尽きて手を離し、そこへ津波がきました。おじいちゃんは沈んでいく瞬間「立派な岩城をつくってくれ!」と叫んだそうです。

 その日若いママは「津波が見えるっ!…いままでありがとうっ!」と母親に電話をかけてきて、自分の子供と共に津波に呑まれていった、という記録もありました。

 両親と妹が津波で行方不明の4歳の幼稚園児がママ宛の手紙に「いきているといいね。おげんきですか?」と書いたそうです。

 短歌では、この村のオタマジャクシはオタマジャクシのまま死んだ、という句や、 せっかく津波で生き残ったのに破傷風で死んでしまった友を瓦礫の中の寺で見送る、という句がありました。

 子供が津波で行方不明になり、遺体を見ていないので死んだことにはできない、という母親や、雁がねぐらへ帰って行くように死体は陸に戻ってきてくれ、という句もありました。

 春の渚にランドセルが漂っていた、という句や漂流物をテレビで見ていた女の子が「おじいちゃんもカナダにいるかも知れない。」と言ったという句や、先生でしょうか、夕方東風が吹いてくると、74人の児童の声が聞こえてくる、と。また他の先生は、行方不明の生徒たち一人残らず卒業した、という句がありました。

 どれもこれも涙なくして読むことはできませんでした。畠中耕三代表は「こころの相談室フォレスト」新聞に涙のひとつぶが復興の源になると書いてあったことを思い出しました。(転載終わり)

 20日 80歳の祖母と16歳の孫が9日間生きていた。石巻、倒壊家屋で冷蔵庫にあったヨーグルト、コーラ、牛乳、水、お菓子で空腹を満たし、濡れていない毛布にくるまって生存していた。自宅のあった場所から100m近く家屋が津波で流されていた。

 10日目で死者8,000人、行方不明者12000人。安否情報が進まないのは被災が広範囲である、家がその場所にない、ガレキの下になっている、などによる。

 福島、栃木、茨城、群馬県産のほうれん草、カキ茶、牛乳など放射線物質の暫定規定値を超えたので出荷制限となった。

 3月23日 金町浄水場水道水に1リットル当たり放射性ヨウ素131が210ベクレル検出され、都内23区と5市の(八王子は入っていなかった)1歳未満の幼児には飲ませないようにとの発表があった。
 大人は300ベクレルが基準値だが幼児は100ベクレルだという。スーパーやコンビニには飲料水を買い求める人が集中して「1人当たりペットボトル2本まで」と販売制限を設けて対応した店もあった。乳児の飲用を制限したのは福島、茨城、栃木、千葉、東京のⅠ都4県の20水道事業者にのぼった。5月10日には全ての事業者が制限を解除した。
 5月11日になって、この時、2日間で東京都が1歳未満の乳児がいる23区と多摩地区5市の家庭に配布したペットボトル入り(550mmリットル)の飲料水は48万本だと発表された。 ベクレルとは不安定な原子核がエネルギー=放射線を1秒間に何回放出しているかを示す。つまり10ベクレルはⅠ秒間に10回放射線を放出しているという意味になる。

 3月24日 3号機で作業員被爆3名。2名は放射線医学研究所に搬送された。ベーター熱傷。地下で15㎝の水に浸かりながら40分位作業して173-180ミリシーベルト(炉心の水の約1万倍)の被爆に気付いたのは作業が終わってからだという。普通の靴の上から水が入ったらしい。3号機は昨日黒煙が出て、今日は被爆者が出た。「東電は現場が水浸しになっていることを知っていなかったのか」とNHKの解説者が怒り気味に話していた。
 フランス・パリ大学のポール・ジョバン准教授(日本社会学)はルモンド紙のインタビューで「日本の放射線防護政策は、何より原子力産業の保護を優先する」として、原発作業員が白血病などを発症してもめったに労災と認定されないと批判した。厚労省が今回の原発事故対策に限り、被爆線量の上限を250ミリシーベルトまで引き上げたことについて「この緊急措置は、作業員が死亡することになっても東京電力が補償請求を免れるための方便である可能性がある」と指摘した。

 3月25日 ヘリコプターが上空から赤外線センサーで温度を測ったところ1、2、3、4号機とも100℃以下で安定している。1200℃を超えると溶解する。

 3月27日 高尾ワードでは東日本大震災のための特別断食証会だったが、皆元気がなく中々前に出て証をする人が少なかった。日曜学校になってグループに分かれて話し合いがあった。今回の震災で何が必要になったか。今後何をどうすればいいのかと。圧倒的に多かったのがガソリン不足と貯蔵食品の点検だった。ガソリンは常に満タンにしておくこと。
私の近くでも給油のための長い車列ができた。私らのグループは嫁の美紀がリーダーで
「その時は丁度幼稚園の庭でお掃除をしていたが庭がグラグラして裂けるのではないかと
思った。救い主が再臨されるのではないかと、思わず空を見上げた」と言って皆が笑った。

 3月28日 福島第1原発の敷地内の土壌から微量のプルトニウムが検出された。プルトニウム238、239、240の3種類。自然界にはほとんど存在しない元素。アルファ線を出す強い放射線物質で半減期は約2万4千年だという。非常に毒性が強いが検出されたプルトニウムは極微量だという。
 昨年以降世界では大地震が相次いでいる。昨年1月にハイチ(M7.0)2月にチリー(M8.8)
 今年2月にニュージーランド(M6.3)3月に東日本大震災(M9.0)3月24日にミャンマーで(M6.8)
 この9.0の巨大地震の後、関東から九州まで少なくても13の活火山の周辺で地震が活発になった。富士山の近くでは15日にM6.4の地震が起きその後も余震活動が続いている。過去には東海、東南海、南海地震が連動した1707年の宝永地震(M8.4)の49日後に富士山が大噴火を起こした。2004年のスマトラ沖地震では数か月間に周辺の10以上の火山で地震が活発化し、1年4か月後インドネシアジャワ島のメラピ山が噴火した。
 
 3月30日 福島第1原発では次から次へと危機的状況が続いている。高濃度放射能を含む水の処理が難航している。その為のケーブルの敷設作業が滞っている。今日は300m沖合で3300倍のヨウ素131が検出された。

 3月31日 福島第1原発の1号機から4号機の南側放水口から330mの海水で昨日よりも高い放射線ヨウ素131が基準値の4385倍に達した。

 原発依存率80%世界第1位のフランス、ニコラ・サルコジ大統領が訪日。「日本は1人じゃない。世界は連携している」と述べ、フランス原子力企業アレバのアンヌ・ロベルジョンCEOも同行し「平時だけでなく、こんな時こそパートナーでありたい」と述べた。彼女は米スリーマイル島や旧ソ連のチェルノブイリの原発事故で現地対策に協力した経験を話し「最大限の支援をしたい」と語った。また、防護服1万着や放射性測定車2台などを日本側に提供した。
サルコジ大統領にフランス人の記者が会見で質問した。「世界では反原発の声が広がっていますが」と。サルコジ大統領は「原発はクリーンエネルギーとして、既に稼働している。より安全性を高めることの方が現実的だ」と回答した。

 4月2日 壊滅的な被害を受けた仙台市若林地区在住の友人B姉妹に漸く連絡がついた。自宅近く1㎞まで津波が迫ったが家族全員無事で教会の支援活動に参加しているとのことで安心した。仙台駅近くの上杉ワードが支援活動の拠点になっている。ユタの教会本部から毛布1万枚が届いて必要な人たちに配布している。混乱の中では御霊が頼りだ、という。石巻方面では下着や洋服も不足していて、彼女の母と妹が東北ラジオに番組を持っていて
その情報で避難所3カ所に750枚の毛布を配った。若い男性の組織は浸水した地域の会員宅の清掃作業を行っているが、泥の中に遺体があったらいけないので、丁寧に泥をスコップで取り除かなくてはいけない。通常ではあり得ないことが日常化している、とメールに書いてあった。 また、ガソリンを買いに行くのだが運ぶための携行管が不足している、という。

 4月4日 災害が変えた世界史を新聞で読んだ。BC2000年頃から1400年頃地中海クレタ島などで栄えたミノア文明はクレタ島の沖合いに浮かぶ島・テラ島(現在のサントリニ島)で起こった火山の大噴火で発生した大津波が原因の一つとなって衰退した。この噴火を起点とし、それに伴う大津波の発生や、火山灰や二酸化硫黄の流出による気候変化、そして気候変化がもたらす作物の不作が、クレタの国を崩壊した。
1755年リスボンを大津波が襲った。死者は62000人から9万人といわれ、列強の中でポルトガルの弱体化が進んだ。(記事はここまで)

 被災後の6月頃から被災地の映像と公共広告だけのテレビ画面に突然「しょう~しゅう~りき~♪」と天使のような歌声の少年ミゲル・ゲロイド君(ポルトガルの歌手)が登場し、視聴者の目を引きつけた。日常が戻ってきた感があった。撮影現場のバックの街並みは前述の18世紀の地震と津波で市民の3分の1が犠牲になったリスボンだった。製作者のエステーの、リスボンは惨状からこのように復興したというメッセージだった。其の後エステーは「エアカウンター」という放射線の線量計を製作して3万円の価格であれば収支は同じものだが7900円まで値下げして大赤字を出してまで企業として被災者支援を行った。

1707年 宝永地震。(南海トラフ連動型地震)49日後に富士山大噴火。死者4900―2万人。
1854年 安政東海地震、死者2000人―3000人。翌日に安政南海地震。死者1000人―5000人。双子地震と呼ばれる。
1896年 明治三陸地震。死者・行方不明者2万1959人(主に津波死者)
1923年 関東大震災。死者行方不明者14万2800人。(火災死者が多い)
1933年 昭和三陸地震。死者行方不明者3064人。
1944年 東南海地震。死者行方不明者1223人。
1946年 南海地震。1443人。

 他にも書き切れない数にのぼる。

 4月7日 D兄弟はアメリカ人の友人2名と上杉ワードの災害支援本部に向かった。4日間の支援活動で、私の友人のB姉妹にガソリンの携行管を届けてほしいと預けた。

 4月8日 (有)加藤商店から年配者向け女性用ズボン38本。ポロシャツ5着寄贈して頂いた。全部新品で、社長さんが製造元まで出かけて行って探してきてくれたことを聞いて更に頭が下がった。使っている福山通運は若林地区には届けられないので集配所まで取りに来てください、ということだった。

 4月9日 2人の孫は父と一緒にスカウトプログラムで震災の為の街頭募金に町田へ行った。

 4月11日 震災後1か月。福島浜通りでM7.0の地震だ。今日まで余震は1600回以上続いて、その内震度4以上は100回だという。

 4月14日 若林地区のB姉妹から最初に印刷されたモルモン書のレプリカが贈られてきた。私に預けた方が安全ではないかと書いてあって、まだこれから先の災害の不安を感じている。「グランデン印刷所では当時の印刷所の様子が再現されていて、当時の印刷が如何に手間がかかり出来上がった本が価格的にも高価なものだったか分かります。~レプリカは読むというより、むしろ証拠品として見て触って、持ってみて、モルモン書が世に出た奇跡に思いを馳せるのも良いかと、隣のブックセンターで購入しました」と書いてあった。

 4月20日 前述のB姉妹の証。「この大震災の惨状で毎日支援活動に励んでいたが、気持ちがおかしくになって来ていたと感じていた時期に、心の中にある光景が浮かびました。大勢の私服姿の人々や、作業着姿、普通の通行人として見かけそうな老若男女、子どもたちが同じ方向に向かって進んでいく様子が一瞬だけ見えたような気がしました。それから次第にショックが薄れていき平常心にもどることができました」と。私は大勢の人たちが命の木に向かって進んで行くリーハイの夢のようですね、と返信した。

 4月21日 米タイム誌が21日の特別号で発表した今年の「世界で最も影響力のある100人」の中に、東日本大震災による原発事故で警戒区域に一部が含まれている福島県南相馬市の桜井勝延市長と、被災直後、壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町の志津川病院で、患者らを最上階に避難させながら、診療し続けた菅野武医師が世界の政治家や著名人らと並んで選ばれた。管野医師の妻は16日に男児を無事出産した。

 4月24日 D兄弟のお話。
 朝4時30分に1人で出発、Y兄弟がマクドナルドを持って来て見送りに来てくれた。
 途中のスタンドで携行管を仕入れた。他の2人の友人の弁護士は仙台駅で待ち合わせて、上杉ワードに行った。管理者のN長老の指示でまた東松山に向かった。現地に着くとそこの地元の指導者の指示で家を一軒一軒廻って「何か手伝う事はありますか?」と、まるで宣教師の頃と同じだった。一軒の家で使い物にならなくなったピアノの解体をチェーンソーで行った。はじめてチェーンソーを使った。2人の男の子が周りをチョロチョロしていて離れようとしなかった。そこの家のおじさんが「あの子たちは女川で被災して親がいなくなった」と言った。(D兄弟は話しながら涙を拭いた)ここで自分が泣き崩れてどうなる、と気持ちを奮い立たせたが、自分には出来ることと、出来ないことがある、と思い知らされた。一杯の水を汲むために被災者は文句も言わず自衛隊の給水車に並ぶ。こうして安楽にしている私たちは何かに対して文句を言う資格がないと思う。
 2つの小学校で新鮮な牛乳と卵を必要としていたが仙台では手に入らなかった。S兄弟が千葉から取り寄せてくれて、それを届けることが出来た。

 7日の夜3人で東松島の海岸で車を降りて打ち合わせをしていると震度7.5に襲われた。大地が波打っていた。兎に角、高い所へとハンドルを取られそうになりながら車を移動させた。途中道が盛り上がってしまい車が浮いている状態の車両を助けて、後続車が事故らないように交通整理をした。

 次の日市役所に行って緊急通行車両の証明書を申請したら「2、3日かかります」と言われて怒りが込み上げてきた。「人の命がかかっている!」と。同行した遠藤さんも「自分は家も家族も失った。避難所で食べさせてもらっている恩返しをしたいのだ」と。すると証明書は30分で発行された。

 D兄弟の2度目のボランティアでは親しくなった漁師さんが、今回の震災で、家族がどんなに大切な存在かを話してくれたそうだ。

4月24日 新聞記事から学ぶ。米ハーバード大学マイケル・サンデル教授(58)が同大の学生主催のシンポジュウムで「国境を超え世界市民意識は築けるか」と訴えた。ある男子学生が「推定12万人が死亡した2010年のハイチ大地震と28万人以上の死者を出した2004年のインド洋大津波に言及して「東日本大震災よりひどい災害で、これらの災害と東日本大震災の間に違いはあるのかと」と質問した。暗に東日本大震災の「特別扱い」を批判し、「世界市民」意識の発展の可能性にも疑問を呈した。「「災害は災害」と切り出したサンデル教授は「ただ、それぞれの災害からどういう意味を見出すかについて、私たちはまだ答えを出せていない。どれだけ多く亡くなったかは答えにならない。どういう答えを出すかは、私たちにかかっている、と慎重に言葉を選んだ。

 5月1日 ステーク扶助協会の東日本大震災のアンケートのコメント欄に「天地は過ぎゆくとも我が言葉は過ぎゆくことなし」と書いて聖典を調べたら「天地は滅びるとも~」となっていた。自分の記憶では「過ぎゆく」だったのだが、あちこち開いてマタイ24:35、マルコ13:31、ルカ21:33、最後に英文聖書にあった!
 「Heaven and earth shall pass away、but my wards shall not pass away」 

 5月6日 天皇皇后両陛下、岩手県釜石市、宮古市の被災地ご訪問。4月末の宮城県に続き2度目である。床に膝をついて1人1人の話に聴き入り、「大変でしたね。お身体は大丈夫ですか?」と声をかけられていた天皇陛下。「本当によく助かって下さいましたね」と述べられた皇后さま。「その言葉でこれから頑張ろうと思いました」と語った被災者。そこには皇室を戴く世界最古の君主制国家日本の姿があった。

 同6日 菅首相浜岡原発4、5号機に運転停止を要請した。

 5月15日 八王子市で集まった被災地義援金は2億円を突破した。私の娘はこれに参加したが、私と夫は既に日本赤十字社にて献金した。

 5月19日 「被災地再建のために共助社会を根付かせる」復興構想会議委員の新聞記事を読んだ。日本社会の美徳として、災害の後に略奪が起こらないという神話は今回の震災で少し揺らいだ。窓ガラスを割られて商品を奪われた商店があったし、人の力で壊されたATMも見た。個人の家も荒らされたという……48時間以内に水と食料と毛布の「3点セット」を被災者に届けるシステムが必要だと思った。というのは震災から2日間は乏しい食べ物を分かち合ってがまんしていたが3日目になってから「略奪」が始まったと聞いたからだ。避難所に於ける責任がはっきりしないことも深刻な問題になった。学校に避難してくる住民の車を学校側が入れなかったため、渋滞が起きて後尾の人たちが津波にさらわれた。学校側が高台にある校舎に避難してきた人たちを入れずに、低地にある体育館に誘導したため津波で多くの犠牲者が出た。校庭で焚火を認めなかったために、被災者は寒さに震えるしかなかった。避難所に届けられた食料の分配をめぐって被災者の間で言い争いが起きた。こうした事例は学校側に与えられた権限が「児童、生徒の保護と施設管理」だけだったために「災害時には住民全体の生命を守るため、学校に関わる全ての権限を学校長に委ねる」という決まりがあれば防げた悲劇や混乱だった。

 6月2日 日暈(ヒガサ)の気象現象。孫が社会科見学で高尾山に登り、遠くにスカイツリーや東京タワーを見て、帰りに太陽の周りを囲んでいる丸い虹を見た。不思議なこともあるものだと思ったが先生が眼の錯覚じゃないかと言ったそうだ。「地震の前触れか?」「放射線の影響ではないか」などの問い合わせが気象庁に60件相次いだ。関東から東海地方にかけてこの現象が現れたが、上空8000m~10000m付近において氷の細かな粒でできた薄い雲を太陽の光が通過すると、氷の粒がプリズムのような働きをして起こるそうだ。上空の風の乱れが少ない春や秋に起こりやすいという。

 7月1日 東京の気温は30℃以上が続き、全国では35℃が3日間続いているところがあるのに、今日からまた節電が始まった。企業は15%削減が義務付けられ違反したところは1時間で100万円の罰金が科せられる。

 7月18日 女子W杯で、なでしこジャパン頂上に立つ。1勝もしたことのないアメリカに文句なしの快勝だった。震災で疲弊していた日本中が歓喜に沸いた。

 8月2日 町田ステークヘルピングハンズ43名が被災地の陸前高田に行った。私の娘の夫も同行して遺体を発見したことを家族に電話してきた。作業をしていたある兄弟が粗大ごみを移動させたときに発見して、警察を呼んで、警察が免許証を見て身元を確認し、すぐに家族がきたという。花巻温泉は良かったが、被災地までバスで2時間半かかった。
娘の夫はそれ以前にも兄と石巻に行って田圃に流れ着いていた家を、持参したチェーンソーで解体した。一緒に作業していたおじさんが「この家はいい材木を使っているなあ」と言ったそうだ。2階が子供部屋だったのか、ランドセルや学用品が泥だらけになっていて、それを道端に並べておいた。近くにイカの加工工場があって、そこの在庫のイカが真っ黒いヘドロの塊になってその辺の田圃一面に広がっている。臭いの臭くないのって!と彼は
語った。

 レスキューキャットの記録 本多隆治(こころの相談室フォレスト新聞より転載)
石巻市北上町13浜の仮設に来るようになって3ヶ月になります。3ヵ月間続けて、ようやく顔も覚えられ、また来てくれと言われ、ようやく認知されたようです。毎月来ると決心して始めました。これからもこの活動を続けるために、3つの信条を考えました。

(1)いっぱいいっぱい:被災地では家や仕事の事に必死で、多くのことに心を配る余裕がないように感じます。我々は出来る範囲で、彼らのできないことを代わりに補いたいと考えています。
(2)今を大事にする:今、は一回しかありません。後にはできないこともあります。今行う必要のあることを提案し、今行えるように助けます。
(3)一回でも十分:一回の良い思い出があればそれを心の支えとしてがんばることもあります。
この3つの信条を心に留め、これからもできることを行っていきます。我々のグルー名はレスキューキャット(RCAT)としました。被災地では、救助犬(レスキュードッグ)が活躍しました。我々は気持ちとしては、救助犬と同じ働きをしたいですが、実は猫の手を貸すぐらいしかできないので、救助猫(レスキューキャット)としました。
 これから長くお付き合い願えれば、と思っています。

 消防防災ヘリが緊急消防援助部隊として活躍 
派遣期間:3月11日~6月6日の88日間
総派遣人員数:3万463人(712消防本部)、総派遣部隊数:7577隊
のべ派遣人員:10万4093人、のべ派遣部隊数:2万7544隊
最大時派遣人員:6099人、派遣隊数:1558隊
緊急消防援助隊による救助・救出実績:2万7577人。犠牲になった人々:18480人

 2015.3.1 NHKで緊急消防援助隊の史上最大のサーチ&レスキューが公開された。広大な被災地を上空から一望出来て大規模震災の恐ろしい全容を初めて確認できた。仙台空港及び仙台市消防ヘリポート、航空自衛隊松島基地が水没する被害を受け、宮城県防災航空隊の「みやぎ」や航空自衛隊松島救難隊のヘリを始め、多くの航空機が被災した。地震発生後離陸していた仙台市の消防ヘリは津波被害を免れ、陸上自衛隊霞目駐屯地を拠点に宮城県沿岸の救助活動に活躍した。消防庁の要請をうけ、全国から被災地に向け消防防災ヘリが緊急消防援助隊として派遣された。山形空港、福島空港、花巻空港が24時間運用に切り替えられ、運航拠点となった。厚生労働省の要請を受け、DMATとドクターヘリも派遣されている。
 山梨県隊、熊本県隊、富山県隊、愛知県隊が被災地に向けて出発するも、雪に視界を遮られて飛行できず、止む無く途中で足止めされた部隊や、現地に到着しても津波に流されて、正確な位置が分からない、指示を仰ぐも無線が混戦していてどれがその回答かも判別できないなど、様々な困難に直面しながら現場の判断でサーチではなく、レスキューに切り替え、屋上や屋根に避難している一人一人をヘリに吊り上げ救助を行った。被災者も救助隊員に指を差して「危険な状態の向こうの人を先に救助してくれ」と合図をしたのだ。水が引きはじめた3日目は1万人の救助ができた。また、陸上部隊と連携して気仙沼市では徒歩で救助を行った。屋上で携帯電話を握りしめ、救助を待ったまま死亡していた女性の救えなかった命を思って、隊長の言葉は少なめだった。せっかく津波から逃れたのに孤立して死亡した人々の死因は低体温症だった。

 末日聖徒イエス・キリスト教会
日本赤十字社に義援金を献金し、15000枚の毛布とミネラルウォーターを発送。ヘンルピング・ハンズは傾聴ボランティア、労働ボランティア、食料医療清掃キット3万個梱包発送、その他生活物資を提供した。
ボランティア参加人数延べ 3万1669人 奉仕時間延べ 60万8048時間。
詳細は教会の日本公式ウェブサイトの関連サイト「モルモン・ヘンピング・ハンズ」で検索できます。

 2015年(平成27年)1月9日時点で、震災による死者・行方不明者は18、483人、
建築物の全壊・半壊は合わせて401、567戸が公式に確認されている。
震災発生直後のピーク時においては避難者は40万人以上停電世帯は800万戸以上断水世帯は180万戸以上等の数値が報告されている。
復興庁によると、2014年12月11日時点の避難者等の数は233、512人となっており、避難が長期化していることが特徴的である。
日本政府は震災による直接的な被害額を16兆円から25兆円と試算している。この額は、被害が大きかった岩手・宮城・福島の3県の県内総生産の合計に匹敵する。
(阪神・淡路大震災では兵庫県1県の県内総生産の半分ほどであった)。
世界銀行の推計では、自然災害による経済損失額としては史上1位となった
 
 

  • 膨大な記録資料を有難うございました。悲喜こもごもの大きな出来事でしたので、風化させないようにしたいものです。 -- 昼寝ネコ 2015-03-04 (水) 12:38:59
  • 昼寝ネコさま
    長引く復興への道のりに疲れ果てている人々にその重荷を負ってくださるキリストのくびきのことを伝えたいのに、伝える術が分かりません。私は「すべてのことを良いものに変える能力は神の属性である」(ハートマン・レクター・Jr.)と信じています。 -- 岸野みさを 2015-03-04 (水) 20:32:24
  • 貴重な記録の掲載に感謝いたします。 -- 沼野治郎 2015-03-04 (水) 21:26:55
  • 沼野治郎兄弟
    何かご参考になれば嬉しいです。あなたさまのご投稿をお待ちしています。 -- 岸野みさを 2015-03-04 (水) 21:35:36

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