16100301高畑千枝子
2016.10.03 自分史・家族史「誕生日に母を想う」 投稿者:吾亦紅
私が生まれた時、キテイー台風で家の近くの広瀬川が氾濫し床下浸水しました。母は大きなお腹を抱え近所の魚やさんの二階で私を生んだと聞いています。姉たちは、部屋から川を見ていて、色々な物が流れてきて、屋根のような物や、たらいや、垣根など流れてきたと言っていました。
貧乏人の子沢山!で育ちましたが、母は厳しく、限りなく優しい母でした。
まだ、兄弟姉妹7人健在ですが、母の話になると皆泣いてしまい ます。
皆で、鰻を食べていた時、弟は母に「当たるから食べない方がいいよ」と言いました。私は何の意味?と思いましたら、母は「あたしゃ、当たっても頂くよ!」 と。母の顔は皺くちゃで、梅干しみたいなので、弟が言った言葉の意味を母は直ぐ理解して、美味しそうに食べていました。(鰻と梅干は食べ合わせが悪い)
子供の頃、どんなに早く起きても母は台所にいました。夜中に目が覚めると、針仕事をしていたり、本を読んだりしていて、寝ているところを見たことがありませんでした。
夕方、魚や野菜と一緒に、水玉のサッカー(生地)を買ってきて、次の日、手縫いで作り、姉と私のお揃いのワンピースを祖母の家に着て行った事もあります。幼稚な色で私はそれが恥ずかしかった。
夏は、手ぬぐいで手の汗を拭きながら、春に小さくなったセーターをほどいて編みなおして、秋に直ぐ着られるようにしてくれましたが、やっぱり私は、既製品のおしゃれなニットに憧れていました。母の編んだセーターを褒めてくれるのは、家庭科の先生や友達のお母さんでしたね。太一や洋介の毛糸の靴下も良く作ってくれましたが、使いにくいので、度々断っていました。
今、思うと、もっと母から沢山の事を教わっておけばよかったと思います。世の中すべての女性がそう思っているでしょう。
その母も私と同じ9月生まれ、父と妹は同じ9月17日、19年生まれの姉は25日、家族に5人も9月生まれがいると子供の頃は「お彼岸にいっぺんに誕生日」と言っておはぎでごまかされていましたね。今では、それも懐かしい。
- 古き良き時代でしたね。
いつまでも有ると思うな親と金! -- パシリーヌ 2016-10-03 (月) 21:12:09 - パシリーヌ殿 おっしゃる通り!です。母のさつま芋のてんぷら、もう一度食べたい。 -- 吾亦紅 2016-10-05 (水) 22:13:27