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2019.05.14 穀粒記者レポート「8人の王子の物語」投稿者:岸野みさを

 1970年3月15日日本東京ステークが誕生した1年半後の1971年10月17日 吉祥寺の東京第3ワード付属支部として開設された八王子は(注1)この日天神町の狭い借家で第1回支部大会を開催した。訪問された故渡部正雄兄弟(注2)が「8人の王子様(神権者)がいるので八王子である」と命名された。その第3王子が丸山幹夫だった。1972年4月30日八王子は独立支部として発足した。第3王子はこの年の12月に宣教師に召されて宮崎県都城伝道所に配属された。
 注1):当時、中央線の吉祥寺以西に教会はなかった。
 注2):1972年2月27日アジアで最初の祝福師に召された

 リアホナ2016年7月号でモンソン大管長の「先祖の信仰に忠実に」を家庭の夕べで学んでいた時、夫が八王子の初期の改宗者である「8人の王子様」の記録を残してはどうか、と提案された。賛同した私は早速丸山兄弟に連絡すると、すでに自分史・家族史として記録に取り組んでいたことが分かり、私は質問してみたいことが多々あったので紙面インタビュー形式で回答して頂くことを提案すると快諾して頂いた。

 八王子の記録としては1997年6月「シオン八王子四半世紀」を発刊し2011年12月「シオン八王子40周年 植えられた者」を多くの会員たちの投稿によって発刊した。

わたしの人生   丸山幹夫
 神様は、わたしが生まれるときから、すべてをご存知であった。そのために、霊的にも物質的にもすべてについて、祝福を用意してくださっていた。また、その都度私自身の選択の自由により、選んだ人生、生き方、生活について、その都度祝福を用意してくださっており、わたしの人生を永遠の救いに向くように、この世でも喜びを得られるように、試練を耐えられるように、また、自ら招いた罪による苦しみからでさえ、そこから逃れ、それでも喜びを感じられるように、祝福を用意されていた。
スコット長老1995年の話から(武井兄弟の聖餐会の話2016.7.31)二つの苦しみとそれから逃れるための方法。
私もそれなりに悔い改めをしてきた。
生まれた場所。両親、兄弟、境遇、知り合った人々、事件、・・・・・わたしが選ぶだろうこと、選んだ先の仕事、場所、人、仕事の内容やその時に起きること、福利厚生までご存知で、祝福を用意されていた。

丸山幹夫兄弟へのインタビュー   町田ステーク 高尾ワード所属

1、小学校、中学、高校の頃の思い出をそれぞれ語って下さい。ニックネームがありましたか?

 わたしが生まれたのは、戦後8年たっていたが、我が家はまだ貧しい状態であった。6畳一間に土間の台所、トイレお風呂はないという長屋住まい。隣とはベニヤ板1枚で仕切られただけで声が聞こえるようなところで育った。食事は、それこそ一汁一菜であった。服も穴が開いていても、誰も気にしない時代のように思えた。もちろんわたし自身も貧しいことや服に穴が開いていてもまったく気にしたことはなかった。母がいつもきちっとつくろってくれていた。

 お風呂は、いつも姉(のちに改宗した)に連れられて片道2キロくらいあっただろうか銭湯に通っていた。その銭湯は、のちに岸野ご家族が八王子付属支部のためにわざわざ吉祥寺から家族で引っ越してきたアパートの近くで、長男の功春兄弟が3歳ころだったか、わたしが彼を連れて一緒に入ったことのある銭湯である。

 わたしは、3月31日生まれで背も低く、並ぶときはいつも一番前であった。小学校低学年の時は、運動では他の同学年の生徒についていくのが大変であった。しかし、高学年になってからは、運動が大好きで水泳などは、50メートル競走に出る子がいなく、私と堀君の二人だけでレースをしたことを今でもはっきり覚えている。
そして負けて悔しかったことを覚えている。

 中学時代は、ブラスバンド部に所属し、トランペットを担当していた。八王子のお祭りのパレードには、小学生では小太鼓、中学ではトランペットで毎年出場した。大人たちから、太鼓が歩いているとか、トランペットが歩いていると言われるほど小さかった。
オペレッタでシンデレラ。ボーイソプラノで文化祭で一人で歌うように言われたが恐くて山本勝君と歌ってもらった。小さい秋見つけたとマスを歌った。

 中学のころ、女子のどこかのクラブの部屋の前を歩いていると後ろから男の子が走ってきてその部屋の電気を消して行った。いたずらである。それを女子部の恐い人が私がしたのだろと攻めた。それで泣いてしまうほど気が弱くおとなしく社交的でない男子生徒であった。
好きな子ができて、思い切って八王子吹奏楽団のチケットを渡し、一緒に行かないかと、本当に自分としては良くできたと思うような行動をしたが、見事にふられてしまった。田中幸子さんという、今でも覚えている鉄筋2階建ての家に住んでいた。
高校時代も好きな子とたまたま一緒の電車の車両の同じドアから入った時も、彼女が下りるまで(武蔵境から下り線)、まったくしゃべれなかったことを覚えている。なんと男らしくない、勇気のない、ダメな男だったのだろうかと今更ながら情けなくなる。

 高校時代は、剣道部に所属し、高校3年生の時はクラブでただ一人3段合格した。しかし、クラブの中では、強い子がたくさんいて、何となく嬉しかったというか、コツをつかむのがうまかったと今でも思っている。
試験でも、わたしは、先生の教えることから試験に出るところを予想するのがうまかった。私の人生全てに言えることだが、スポーツでも勉学でもすべてそこそこできるしウマイ、しかし、決して秀でることはなかった。

小学校はとにかく遊ぶこと、近所の友達二人とはとにかく毎日遊んでいた。低学年の時は年上の男の子と一緒について遊び、高学年からは私がガキ大将であった。今考えるとそれは、内弁慶という感じかもしれない。仲間内だけであったのか。

 中学に入って、1年の時は、クラスの中でも成績は下の方であった3年生になってからは、どうしてかわからないが、テストをするたびに11番ずつ成績の順番が上がっていく。初めは44番から始まり、次日は33番、次は22番と面白いように上がっていった。自分もそれが励みになったのか、受験もあったせいか勉強が好きになったというかやる気が出て、受験に必要な成績では学年で10番以内に入っていた。それで、当時高校ではトップから3番目の高校受験をしたいと言った。今考えると無謀で、どうしてそこを選んだのかわからない。とにかく貧乏であったので、公立の高校しか行けないので、皆が私立のすべり止めを受ける中、わたしは1校しか受験しなかった。担任の村田先生(あだ名はゴキブリ、胴が長くいつも日焼けしていたから。バレーボールの顧問であった)から、はしにも棒にもかからないと言われた。しかし、私はそこを受けると言った。どうしてか今でも分からないが、それが今の自分の人生を決めているともいえるかもしれない。
何と受験に成功し、村田先生は、本当に驚かれたことを覚えている。今考えると、この時すでに神様の御手があったのだと思う。

 高校に入ってすぐに、担任の先生(きれいな若い女性の先生だったとは覚えているが名前は覚えていない)から個人面談を受けたが、その時に、受験での成績は一番下の方だったと聞かされた。クラスもD組で成績で分けたと言われた。とにかく受験校で100%大学受験している高校であった。同学年で、大学に行かなかったのは、わたしだけだと思う。

 しかし、高校では、剣道と学業、学生運動と色々な事を一生懸命こなしていたのだろうか、成績もどんどん上がり、全学年で16位まで上がり、慶応大学の推薦を受けるほどになった。担任の先生からそれを聞かされ、それからは受験勉強をしなかった。ちょうど皆が一生懸命勉強しているときにである。しかし、とんでもないことが起こった。慶応大学ではラグビーの選手が欲しいということで、学校の推薦枠が一つであったため、当時ラグビーをしていた友達がわたしに代わって慶応大学に入ってしまった。
さあ大変、もう間に合わない、5つの公立の工学系の大学を受け、すべて落ちてしまった。
浪人が決まり、家でごろごろしていた時に、カーリー長老とアンディー長老が我が家に来たのである。

 教会に入り、真剣に自分は何になりたいのか、どのような仕事をしたいのかを考えるようになり、ただ、ただ何となくその場その場を過ごしてきた自分の人生を思い、何がしたいのかわからなかった。
それでいろいろ考え、航空大学を受験した。パイロットになりたいと真剣に感じたわけではなくなれたらよいな、位のことであった。身体検査で不合格、道が無くなった。そこに、岸野支部長から、伝道に出なさい、これは召しですと言われたわけだ。

 家では、「ぼく」といつも呼ばれていた。末っ子で姉が二人いた。わたしの上に男の子二人が生まれ一人は水子で一人は生後間もなく亡くなったそうで、法律上私は次男、実質的には三男である。とにかくかわいがられていた。
私も生後10か月くらいの時にのどに膿がたまる病気になり、仁和会病院で手術を受けたらしい。10万人に一人の病気とか聞かされたことがある。術後、膿がまた出て再手術を受けたそうである。私自身は、看護師さんから注射液の空箱をもらって喜んでいたそうだ。両親は、また死ぬのではないかと思ったらしい。何とか神様に生かされた。その分神様に恩返しをしているかどうか聞かれると、隠れたくなるが。

 両親は熱心な仏教徒であり、毎朝毎晩オカンキンと言って仏壇にお経をあげていた。わたしはそのそばで寝ていたので、今でもそのお経を唱えることができる。
私も一緒に、プラスチックのマスクをしてご飯を小さな専用の器に盛り、水を入れて仏壇に供えたり、お経も上げたこともある。面白かったからかもしれないが、自然と信仰心が育っていたのかもしれない。仏さまに炊いたばかりのご飯と水を挙げなければ私たちの食事は始まらなかった。
両親の信仰心や行いがあったので、わたし自身も信仰心が芽生え強められていったのかもしれない。

 高校生の時、剣道をしていたこともあるせいか、禅には少しは興味があった。
しかし、キリスト教とは小学生の低学年ころに、近くに教会があったので日曜学校に何回か行ったことがある程度で、まったく縁がなかった。
高校3年の時に倫理社会の授業で、わたしはなぜか新約聖書のマタイによる福音書を読み、それについて書いたことがあった。イエス・キリストと言う人はいたかもしれない、しかし、彼は人間であり神ではないと書いて提出したことがあった。帰ってきたものに先生のコメントがあり、わたしの考えに異論を唱え、軽薄であるように書いてあった。
それを今でもはっきり覚えている。それから間もなく宣教師と会うことになるのである。

 小さいころは、とにかく近所の子供たちと遊んでばかりいた。勉強は宿題だけだったような気がする。
磁石を道に転がし、釘や磁石についた金属を集め、それを回ってきたクズヤさん(当時はリヤカーを引いて金属などを集める人がいた)に売るとそれなりの小遣いになった。
卵は、一個15円くらいしたように思うが、烏口のマスクをしてオートバイで卵を仕入れて売っている近所のおじさんから買っていた。
オリンピックの年、わたしが小学6年生のころ、テレビを親戚のおじさんがバイクに乗せて持ってきてくれた。それを父が高いところに設置して、近所の人が夜になると見に来ていたのを覚えている。
それまでは、ラジオが唯一の楽しみで、皆でよく聞いていた記憶がある。

2、度々お話されていましたが、1971年3月、ハウスtoハウスで来られた宣教師に借りたモルモン書(当時はモルモン経)をお返しするつもりが宣教師たちの顔を見ると返却できなくなりました。どのような心の変化があったのですか?

 高校3年の3月、受験に失敗し、これから浪人生活が始まる中、今後何を目指していこうかと思っていたころ、家に今改宗している姉と二人でいた時、二人の外人がわたしの住む都営住宅の中を何か本をもって歩き回っているのを窓から見た。辞書でも売っているのかと思っていた。
しばらくすると我が家のインターホンが鳴った。出てみると二人の外人が立っていた。当時、アメリカ人と会ったり話したりすることは全くと言って良いほどなかったが、圧倒されるような雰囲気はなく、彼らの話を聞いた。流暢な日本語で、「わたしたちは末日聖徒イエス・キリスト教会の宣教師です。」と言い、モルモン書について説明され、1週間貸すので読んでもらいたいということであった。これが運命の出会い、神様がそうしてくださった永遠の門に入るための細い道へ入る入り口となった。それがカーリー長老とアンディー長老である。

 わたしは、本を読むことをほとんどしてこなかった。中学の時の宿題で「15少年漂流記」をはじめから最後まで読んだのだのが最初で最後という始末である。なので当然、モルモン経のような文語体で書いてある厚い本など読む気にもならなかった。
約束通り1週間後二人の宣教師が我が家に尋ねてきた。当然読んでおらず、彼らはしつこく来週来るのでもう一度読んでみてくれと言う。
次の週も読んでいなかったが、また1週間貸してくれるという。閉口する気持ちもあっが、断れない性格もあり、そのままにした。
しかし、いかにせん、もう一度来てもらって読まなかったということもさすがに失礼だと思い、ここで読んでみるというのが普通の人かもしれないが、ましてや浪人で暇だったのだから、しかし、わたしがとった行動は、それを読まずに返すということであった。
週末だったか、自転車でチラシに書いてあった住所と地図を頼りに天神町にある教会に返しに行った。そこは洋館で、アメリカ人が二人いて少し変わったところであったということを覚えている。
彼らにモルモン書を読む気がないので返しに来た、と言った。彼らはそれに対して変な顔一つせずに、今30分くらい時間があるかと聞いてきた。わたしの心には、外人と話すとか今までしたことがないことへの興味があったのかもしれない、また、浪人し、時間はたっぷりあったので、30分位なら良いですよ、と勿体ぶって答えた。すると中へ案内され、紹介レッスンが始まったわけである。
そこで見ること、聞くことすべてが初めてのことで、宣教師たちの態度、教会、それらを見て、だんだん引き込まれていったのかもしれない。レッスンが終わるころには、また会えますか?と言う質問に大丈夫ですという自分がいた。

 心の変化というより、主の御霊がわたしの心を開き、心地よさや自分の将来どのようにしたらよいのか掴めていなかった心に(当時は自分ではそれほど悩んだり困っていたということを感じていたわけではなかったが心の中に何かあったのだろうと思う)、光が差したのかもしれない。
また、断れない性格と気の弱さ、何かしれない気持ちにより次の約束をしてしまった。
それから、日曜日やそのほかの日に教会に行くようになり、太田兄弟や小泉姉妹、他の宣教師、会員と会い、同年代の兄弟姉妹もいて、楽しく過ごすという経験もした。また、途中から八王子に集っている深須兄弟と一緒にレッスンを受けるようになった。
それからは、水が落ちるように、教会、宣教師、会員たち、プログラムに吸い込まれていった。中でも、何回か目のレッスンで、どんぶりに山盛りのアイスクリームを御馳走になった。それまで、小さなアイスしか食べたことがなかった、また、アイスなどめったに食べられなかったので、カルチャーショックを感じたことは良く覚えている。冗談で、わたしはアイスクリームで改宗したと言っているが、それほど印象に残っている。

3、吉祥寺第3ワードのバプテスマフォントでバプテスマを受けられましたが、どなたが施されましたか?バプテスマと按手礼の証を聞かせて下さい。

アンディー長老(アラン・アンダーセン長老)がバプテスマを施してくれ、カーリー長老(ディーン・カーリンウッド長老)が按手でした。
レッスンは順調に進み、レッスンが始まってから1か月ほどしてバプテスマを受けることになった。深須兄弟より1か月早かった。彼は、慎重に自分の証を強めていったのかもしれない。
当時も今と同じで、未成年だった私は、両親からバプテスマの許可を受けなければならず、書面にサインと印鑑が必要であった。両親に話したとは思うが、自分で名前を書きハンコを押して宣教師に渡した。
急ピッチにバプテスマが決まったこともあってか、バプテスマの当日、朝から雨で、夕方から吉祥寺でバプテスマ会が予定されていた今はお休みになってしまってどこにいるか分からないが、タケイ兄弟(漢字がわからない)と一緒にバプテスマを受けた。彼は東京神殿の発表の時に指揮者をしたすごい人であるが、自分の部屋で考えていた時、急にこれでバプテスマを受けて良いのだろうかと感じてきた。これは今考えるとサタンの誘惑であったと思う。
なぜかわからないが、「ジョセフ・スミスの見神」というパンフレットを読もうという気持ちになって、それを読んだ。そして結果として、わたしは、一生涯この教会のために自分をささげようと決心してバプテスマを受けた。今考えると、これは聖霊の助けであった。

4、バプテスマを受けるまでに当時読んだモルモン書の中で一番印象に残っている箇所を教えて下さい。

 アンモンが改宗したラモーナイ王の父の王がアロンから福音を聞いていた時、祈った言葉。アルマ22:18「おお、神よ、アロンは、あなたがましますことをわたしに告げました。もしも神が生きてましますならば、そしてあなたがその神であられるならば、あなた御自身のことをわたしにお知らせください。・・・・・」
わたしは、バプテスマを受ける前にもこの祈りをしていたと思うが、その応えはなかったかもしれません。バプテスマの当日その応えがあったのでしょう。

5、次の年に宣教師になりましたね。伝道地での忘れ得ぬ人々とのできごとを分かち合って下さい。

 初めに都城に行きました。伝道本部からアメリカ人の宣教師と一緒に夜7時ころ着きました。そしたら、会員が2,3人いて、我々の先輩たちからの伝言を受け取りました。そこには、「モルモン書をもって売って来なさい」と書いてあったと思います。12月のクリスマスを過ぎた時だったと思いますが、夜でどこがどこだかわからない中、二人で近所だったと思います、ハウスツーハウスに行きました。モルモン書を1冊売れたか、まったくなかったか記憶にありません。ただ、来たばかりですぐに伝道に行くんだと思ったことを覚えています。また、9時過ぎに帰って二人で即席ラーメンを作ったことを覚えています。そして、わたしはスープまですべて飲んだのですが、アメリカ人の宣教師は、わたしがどんぶりに口をつけて飲んだところを見ていなかったため、「この箸でどうやってスープを飲んだのか」と聞いてきたことを覚えています。

 また、くだらないことですが、いつだったか覚えていませんが、アメリカ人の宣教師が、日本のトイレで用を足す方法がわからず、そこに座って用を足し、あとで同僚から教えてもらったということも覚えています。

 忘れ得ぬ人との出会いと言えば、たくさんありますが、一番は村岡家族だと思います。
下関に転勤になった時、彼らは既に求道者で、まだ、レッスンが始まったばかりでした。子供が6人いてお父さんは中学校の教師で、昔のお父さんという感じでした。剣道の先生でもあり、本物の日本刀を持っていました。お母さんは、とても小柄で優しい方でした。聞いた話では、酔って日本刀で奥さんに切りかかったとも言っていました。長男は当時高校生で、わたしと大して歳は違いませんでしたが、子供に見えたのを覚えています。

 毎週のようにレッスンをしましたが、なかなかバプテスマまでは行きませんでした。それでも宣教師にはよくしてくれ、ある時などマトンを2キロ用意して、わたしたちにごちそうしてくれました。わたしたちは、家族のことも考えずに、その2キロのマトンをほとんど二人で食べてしまいました。当時、わたしたちも若かったとはいえ、本当に失礼なことをしてしまいました。そのほか、お餅つきとかいろいろ招待されました。
しかし、お父さんはお酒が大好きで、なかなかやめられません。
バプテスマの前日やっと決心をしてやめました。そして、バプテスマの当日、8人家族は次々とバプテスマを受け最後にお父さんが受けましたが、家族皆が水ら上がったお父さんが変わったと言っていました。
その後、彼は下関支部の支部長になり、長年奉仕し、2017年に亡くなりました。
子供たちは全員伝道に出て、一番下の女の子は八王子の柏姉妹を改宗しました。
また、増井姉妹は下関で改宗しましたが、村岡支部長に大変お世話になり、信仰を強めたと先日お話ししてくれました。
そのほか、子供たちとその伴侶は、高尾に伝道に来た人とかいろいろ関係がありました。

 そのほか会員ではないのですが、教会の近くの、お魚屋さんや八百屋さんには必ずおばあさんがいて、その方たちはいつも宣教師にやさしく色々なものをくださいました。

 柳井支部では、高校生の女の子が求道者で、ご両親がバプテスマの許可をくれないということで自転車で1時間以上海沿いを走ってその方の家へ行ったことを覚えています。ご両親は、お墓のこと、娘が狭い教会という中で、結婚相手が見つからないことを心配していました。知恵の言葉を守ることにより会社でもうまくやっていけるのかも心配していました。
わたしたちは、すべてについて説明し、心配いらないと話し、許可を受けバプテスマを受けました。
しかし、その後彼女は、結婚をできず、わたしたちがお父さんに約束したのにうそを言ってしまったのかと心配していたこともありました。しかし、とうとう結婚できました。30歳中盤か後半だったと思います。相手は再婚で子供もいましたが、待望の子供も一人でき、今も幸せに暮らしています。一人の子供(兄弟の連れ子)は私の娘の玲衣ちゃんたちと仲良しでひばりが丘ワードに家族で集っています。本当にほっとしたことを覚えています。

 ケント・ギルバート兄弟と一緒に長崎で伝道したり、ヒンクレー大管長のお孫さんや佐藤龍猪兄弟の息子さんと一緒に伝道したりしました。支部の神権役員会に出て、彼らはわたしたち19歳,20歳の若僧の指導というか話すことに従っていたり、人々はわたしたち宣教師を見て、「キリストさんが来た」と言ってくれたり、色々神様の素晴らしいご計画や祝福をいただきました。まだまだありますが、この辺で。

6、帰還されてから1975.8.2 志村恵子姉妹と結婚されました。お金持ちのお嬢様との、しかも、親御さんの教会に対する反対の中で結婚を決意されたそうですが、その時の胸の内を、今だから話せることがありますか?

 伝道に出る前に二人で結婚を約束していました。二人で指輪を作ってそれをして伝道に出ました。伝道地では、結婚しているのかといつも言われました。また、姉妹の写真を必ず机に置いていました。伝道中3か月くらい交換日記をしていました。彼女の好きなホワイトローズを送ったりいろいろしていました。3か月たって、伝道に邪魔になると思い、それ以来、姉妹とは、誕生日とかの記念日以外はやり取りをやめました。姉妹はなんと、その当時の宣教師のことが好きになっていたようです。また、他の男性から結婚というかお付き合いをしてほしいとも言われていたようです。伝道から帰還した日がクリスマスイブで吉田兄弟がキャロリングの後、我が家に連れて来てくれました。初めは、姉妹の方がわたしに好意を持ち始めたのに、伝道から帰ったら、姉妹は結婚のことは考えず、他の人ともお付き合いをしていたようです。ですので、今度は私の方が姉妹に一生懸命になり、デートに誘ったり学校に送って行ったりと、熱心に求婚活動をしたわけです。変な話ですね。その当時、教会では、結婚の大切さをいつも先輩たちから聞いていましたし、本当にそのことしかないと感じるくらい良く話をされていました。私も伝道から帰って、やはり結婚が大切だと思い、それに集中したわけです。姉妹のお父さんは、貧しい生活の中で自分で会社を立ち上げ、家族を養い、大きな財産を残した人で、特にお金に対する考えが強い方でした。教会の十分の一を特に否定していました。娘を、お金持ちの長男のところに嫁がせるのが責任と思っていましたし、仕事の絶頂期に生まれた子で、とてもかわいがっていましたので、反対されました。二人で、結婚の日取りを勝手に決めました。岸野兄弟姉妹や児島兄弟姉妹、吉田兄弟をはじめその当時の教会の皆様には、本当にお世話になりました。

 そんな時に、伝道中に一緒の支部で伝道していたある姉妹が帰還し、その同僚の結婚式に一緒に行くことになりました。その時、その姉妹から思いを告白されました。すでに恵子姉妹と結婚を約束していましたが、心が揺れました。その姉妹は、とても線の細い人で、そんな姉妹が、わたしに告白してきたということは本当に信じられないくらい勇気が必要だったと思います。その気持ちに打たれ、一時迷い、台町の教会の畳の上で、岸野兄だったか?話を聞いてもらったことがありました。
しかし、結局その姉妹と教会で会って、改めてお断りをしました。その後その姉妹は別の兄弟と結婚をし子供もたくさん生まれ幸せそうでした。ホッとしていましたが、今は家族でお休みされているようで、本当に残念です。

 そんな浮気者の私でしたが、駆け落ちの日を決め、姉妹の家の4階から姉妹が荷物を落とし、下で私が受け取っていました。夜9時過ぎだったと思います。しかし、お母さんに見つかってしまい、その日の朝3時ころまでお説教を受けたことを覚えています。
もうできないかと思いましたが、結局、両親の許可も得ず、強引に結婚をしました。今、親になって思うことは、本当に失礼なことをしたということです。
ダメでもきちっと人を立て、結婚を正式に申し出るとか、大人の対応をすべきだったと思います。ご両親にはご迷惑をおかけしました。今こそ良くしていただいていますが、申し訳なく思っています。
当時は、若かったこともありますが、とにかく、夢中でしたので、姉妹しか私の心の中にはいませんでした。
結婚後も断絶状態でしたが、長女が生まれてから我が家に来ていただけるようになり、現在に至っています。お父さんが亡くなる前、ものみの塔の方を呼んでキリスト教について話を聞いていたようです。わたしたちが、「お金もないのにどうして幸せそうなのか」と思っていただいていたようです。彼が亡くなり、死者のバプテスマ、エンダウメント等を受けましたが、今は天で福音を受け入れていることと思います。

7、そこから、2人から始まった41年間、第3王子の王国はどのように繁栄しましたか?

 子供は、1男4女で、我が家のモットーは、「まず神の王国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるであろう。」です。(2ニーファイ13:33)そのようにして、子供たちを育ててきたつもりです。しかし、子育ては難しいです。もっと預言者の勧告を忠実に行って来ればよかったと思います。今の自分が子育ての最中だったら、もっと良く子供たちを育てられたと思います。ですから、孫たちには少しでも、福音の中で正しい選択をし、今の世の中で主に近づけるように、福音の大切さを伝えたいと頑張っています。孫は、12人(男6人、女6人)で長女に2人(女2人)、次女に4人(男女二人づつ)、三女に3人(女一人、男2人)、4女に3人(男2人、女1人)で、長男は昨年の1月やっと結婚しました。孫が15人くらいになるかもしれませんね。

8、お孫さんに毎週霊的な経験を伝えておられると伺いました。いくつか分かち合って頂けますか?

 毎週ということではないですが、特に安息日に御霊の促しを受けたことや、総大会を聞いたり読んだりして感じたこと、特に孫たちにとって必要なことを感じた時に、メールしています。ですから、そんなに多くはありません。
最近では、2016年4月の総大会の土曜日午前の部会で前中央扶助協会会長会第2顧問のメアリー・R・ダラム姉妹が「子どもを導く賜物」というお話をしてくださいましたが、子供が御霊を感じているとき、子供はわからないのでそれを教えてあげる必要があることを、ベトナー長老の言葉とか、旧約聖書の少年サムエルが主の声を聴いたにもかかわらず、主人のエリに、わたしはここにいますと言いに行ったシーンを例に教えています。
ベトナー長老は、バプテスマの後の聖霊の賜物を受ける確認の儀式の大切さを見逃し、「聖霊を受けなさい」という言葉は受け身でいるように言い渡すものではないと言い、作用するものになるように促す、権威ある勧告なのだと言っています。また、子供には静かな細い声を聴き分ける偉大な感性があるとも教えています。そして、エリは最後にはその声が主からのものであることを教えます。
そのように子供一人一人に注意を向け彼らの話していることや、やっていることを見守る必要があること、子供によって、御霊を感じる方法が違うこと、目から学ぶもの、耳から学ぶもの、触れたり身体を動かして学ぶ子供もいることを理解する必要があること。
また、静かな細い声を感じられるよう、家庭を整え、子供に準備をさせることの大切さを伝えました。そのために、神殿やイエス様の絵を飾ったり、賛美歌を流していたり、祈りや聖典研究、家庭の夕べを行っていくこと、家庭を慈愛で満たすことなどが考えられることを伝えました。
また、何かの機会に御霊の促しを受け、今孫にしていることの一つに男の子だけですが、8歳を過ぎた子に、会うたびに少しですがお金をあげることにしています。伝道資金だと言って伝道に出ることの大切さを理解したり、意識してもらうためです。また、孫の1人が、登校拒否のようになったとき、子供たちは、自分の先祖がどのような人であるかを知るとき、精神的な問題が少なく、目標を持って生きられる効果が、ある大学の研究で分かったと聞きましたので、早速、その子に私たち祖父母の生い立ちや改宗について話をしました。しばらくして、まったく嘘のように学校を楽しんでいくようになりました。
孫が12歳になった時に、今年は、11歳の孫娘も、わたしたちの家族歴史の内から儀式ができる人を見つけ、死者のバプテスマをしてもらいました。今年札幌に行ったときは、娘が家族歴史を引き継ぎ、そのデータでバプテスマを受けてもらいました。
できるだけ、2か月に1回日本にいる15人が集まり、合同家庭の夕べをしています。誕生日会を兼ねたりもしています。

9、1971年10月の天神町時代、1か月後の1971年11月から1973年3月までの東町時代、1973年3月から1986年2月までの台町時代の、それぞれ思い出すことを教えて下さい。

 天神町時代、東町時代は、とにかく毎日教会に行っていて、毎日遅くに帰っていました。姉妹たちを兄弟たちが分かれて送って行ったり、とにかく青春を楽しんでいました。天神町では、改宗してすぐに教師をしたり、毎週のように吉祥寺の第3ワードに出かけ指導者会に参加したりしていました。日曜日は、宣教師と丸井(当時)のレストランで食事をしたりしていました。

 東町の教会は、工場を皆で改装したり、ペンキを塗ったりして作りました。扶助協会の部屋は畳の部屋で、今も教会に畳の部屋があると良いな、と思っているのはそれが印象としてあったのかもしれません。
また、伝道には、ここ東町から出たので、宣教師から麦を食べさせてもらって、この食事では出られないと思ったことを覚えています。ネズミもいて、宣教師がバットで追いかけていました。この当時は、会員も増え教会の活動も活動らしくなり、MIAも盛んで兄弟姉妹と活発に活動をしていたことを覚えています。

 台町時代は、結婚をして長女が姉妹のお腹にいるときに、二人でクリスマスの司会をしたことを覚えています。また、児島姉妹が産後3日位で教会の草むしりをしているのを見て、大丈夫なのかと思いつつもすごいなと姉妹と話したことを覚えています。
宣教師が、ごみの大きなポリ容器で、活動の時にルートビアを作ってみなに飲んでもらっていたことを覚えています。当時は何でもなかったのですね。
たくさんの人たちと関わり、楽しく、かついろいろ基本的なことを学んだ時代でした。

10、1980.10.27 スペンサー・w・キンボール大管長によって東京神殿が奉献されました。
特別な経験がありましたら分かち合って下さい。筆者はこんなエピソードを聞きました。ある指導者が高齢のキンボール大管長の健康状態を気づかって、会場になっていた武道館で「別にお部屋が用意してありますので、そちらでご休憩をして下さい」というと大管長は「大丈夫です」と言いました。2回目の促しをしても「大丈夫です」と答えられ、3回目の促しをすると「あなたがお疲れであれば、お休みになって下さい」と回答されたそうです。

 ヒンクレー使徒に次女の由衣子ちゃんがキスをしてもらいました。集会後、追っかけのように幹部の方たちがお帰りになる出口に行きました。そんなに多くの会員たちはいなかったと記憶しています。わたしたちは幹部の方たちに感謝の気持ちを伝えるために近づきました。そしたら、抱いていた由衣子ちゃんを見たヒンクレー使徒が、彼女のほほにキスをしてくれたのです。感動したことを覚えています。そのおかげなのでしょうか。由衣子ちゃんは、本当に親を超える強い信仰、従順さをもって信仰生活を送り、大きな祝福を受けています。
奉献式については、よく覚えていません。神殿が発表された時には、結婚して間もない時で、新婚旅行を兼ねて武道館に行った記憶があります。前日叔父の家に泊りその次に出席しました。当時、私は神殿の大切さについて、それほど感じていませんでした。ですから、皆さんが拍手をして喜こばれ、涙を流されていた会員たちがいましたが、それほどのこととは感じていませんでした。もしかしたら、結婚して舞い上がっていただけなのでしょうし、福音をそれだけ理解していなかったのです。残念なことです。孫たちにはよく教えなければいけませんね。

11、1986.2.1 八王子はようやく借家ではなく自分たちの教会堂である建物が与えられ、奉献式がこの日行われました。当時、苦労されたことをお話下さい。

 その当時は、私はビショップではなかったので、畠中監督が大変だったのではないでしょうか。私はとにかく、八王子ステークを作りたいと思っていましたので、何とかならないかと思っていました。

12、1993.11.28 八王子第2ワード監督に召されました。(注3)それまで様々な召しをはたされてきたと思いますが、第2ワード監督時代のエピソードを教えて下さい。
注3)東京西ステーク会長 宇田川精一郎。

 八王子ワードにしても第2ワードにしても、当時東京西ステークの中で、とても充実した素晴らしいワードでした。評議会が機能し、それぞれの組織が自主性を持ち、ホームティーチングや家庭訪問にも力を入れ、いつも100%近く実施され、会員が一致していました。また、青少年活動が盛んで、とても充実していたことを覚えています。とにかくあっという間に時間が過ぎていったように思います。ただ、結果的にみると、毛髪が薄くなり、白髪が増えていたようです。私の姉妹にそのことを指摘され、実際、解任されてから毛髪が増えてきました。ビショップは、本当に大変だと思います。
この時代に、早朝セミナリーが始まりまいた。次女の由衣子が先頭になって、嘆願書を私に出してきました。それまでは、土曜日に集まってやったりして、日本全体のセミナリーがあまり活発ではなかったように思います。教育部の西原兄弟もいつも言っていましたが、八王子第2ワードの青少年の由衣子の働きによって、日本に早朝セミナリーが定着したと。これは素晴らしいことでしたね。

13、1998年5月24日八王子第2ワードは高尾ワードと分割され、2000年6月4日まで高尾ワードの監督を続けられました。当時の2つのワードの思い出をお話下さい。

 当時は、すでに本多兄弟が監督に召されていましたので、苦労は彼が背負ってくれました。八王子第2ワードから高尾ワードが分割された時に、高尾近辺に教会堂(借家)を探すように指示されました。その時は、ビショップでしたので、高尾近辺の建物を探しました。どれも帯に短したすきに長しという感じでした。しかし、一つの建物を見つけ、それをPBOに報告しました。その時に、教会としては、土地を探し、そこに新しい建物を建てることにしたという話を聞き、結局、私はそれだけのことをしただけでした。今の土地は、教会が探し、そこにプレハブを建て新しい建物が建つのを待ったわけです。ただ、高尾ワードになって、バプテスマがあまりなく、会員を増やすのに苦労した覚えがあります。
小さなワードが二つに分かれたので、神権指導者も少ないですし、始めは、八王子ワードの建物を3つのワードで使っていたわけで、それなりに教会の諸事を整えることはむずかしかったです。伝道も高尾でしても八王子の教会でレッスンをしなければならず、宣教師たちは大変だったと思います。しかし、神様は本当に良い宣教師を送ってくださいました。神様の教会であることを感じていました。
八王子第2ワードの活発会員が130名くらいだったでしょうか、その時に高尾ワードと分割しました。

14、2008年2月17日町田ステーク会長徳沢清児の第1顧問として召されました。解任される2015年4月26日まで、特に力を入れたミッションを教えて下さい。

 人と寄り添うという、今でいうミニスタリングを意識していました。そのために、徳沢会長、上野会長、サブストローム会長は、それぞれご家族があり、仕事も忙しい年齢でしたので、私は姉妹と二人だけであったこともあり、その当時は第1、第3安息日はそれぞれのワードを訪問するということを基本としていましたが、私はすべての安息日を訪問に当てました。もちろん高尾ワードも入っていました。
そして、私は、人見知りがとても強いのですが、できるだけ多くの方とお話をし、その方たちの状況を知り寄り添う努力をしました。
その一つとして、自立支援プログラムには力を入れました。そのほかに私がしたのは、とにかく、私以外の会長会は、超霊性の高い方でしたので、私は時間もあることから、できるだけ彼らの負担を少なくするように、諸事を整えるように、書記や幹部書記の方の手伝いをしたり、彼らをフォローする働きに回りました。
徳沢会長(長老)は、とてもポジティブな方で、一番良いことを常に行う人でしたのでその時々に全力で神様の業に励んでいました。
もう一つ私が力を入れたのは、メルキゼデク神権委員会(ワード担当高等評議員の集り)を活発にし、各ワードを少しでも助けることでした。まず高等評議員の皆さんとともに学び、行い、フォローし、努力していきました。あとは、徳沢会長はあらゆる集会を霊的に進めるために努力していました。手引きや聖典、証、御霊の促しを受けることをしていました。青少年活動にもかなり力を入れていました。上野会長、そのあとサブストローム会長が、ボーイスカウトと若い男性、若い女性、そしてそれらに伴うカンファレンス等、大変ご努力されていました。

15、丸山兄弟は長年有能な消防士として国家に貢献してきました。社会的な責任に対して思うことを分かち合って下さい。

 私は、良い職業に就いたと思っています。オバマ大統領が就任演説の中で、9.11の時に、消防士は、人が逃げていく反対の方に向かって進んで行った。彼らの勇気と人のために自分の命をも顧みない精神が今の合衆国には必要であると。
私たち消防士は、消防士になった時に誓約をします。都民の生命、身体、財産を守るために自らを捧げると。この精神は教会のそのものと一致していたので、すべての仕事において、福音の教えがもとになっていました。ですから、常に祈ることを欠かせませんでした。自分ひとりの力ではできないからです。収入は大切です。でも、すべての職業に就く人たちが、人の利益のことをまず考えれば、人の命の尊さを思えばもっと社会は変わると思います。

16、振り返ってみてご自身の半生を電化製品に例えると何だと言えますか?ちなみに私は洗濯機です。何でもかんでも洗ってしまい綺麗にすることが好きなのです。

 イメージとしては、派手ではなく目立たないですが、ずーと動き続けているものですかね?人の役に立っていると誰も気づかないようなもの。

17、第2王子の吉田上(ノボル)兄弟が2013年8月7日に幕の向こうへ行きました。(注4)いつかは来ると分かっているその時の辞世の句(あるいはメッセージ)を、今からお聞きしてもよろしいですか?
注4)当初のメンバーでこの世を去った人々は、小泉昭子、(2011年1月20日)
吉田上(2013年8月7日)加納彬( 2013年10月21日)

 我が家の家訓と同じです。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、必要なものはすべて与えられる。」という言葉です。(マタイ6:33,2ニーファイ13:33)

 以上、個人情報も含めて貴重な記録を分かち合って頂き誠にありがとうございました。こうして丸山幹夫兄弟は令和元年5月31日に長年にわたり消防業務に精励し都民の安全に寄与した功績に対して、天皇陛下より瑞宝双光章(ズイホウショウコウショウ)という栄えある勲章を賜ることになりました。おめでとうございます。


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