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2019.08.24 自分史・家族史「集結生活」 投稿者:高木 冨五郎

我が生涯 冷夢庵 (3)

(「居留民集結開始さる」の続き)

十一月十一日を期して西苑集結を開始するので実地検証のためスタッフ若干名と共に西苑へ出かけて見た。西直門から万寿山への往還はかつて観光のため幾度か通った道であったが此の日、十月二十九日の万寿山は厳しい肌寒を覚えしむるばかりであった。
万寿山の南方に見える兵営跡、それはかつて第二十九軍の宋哲元部隊の本拠であったのを日本軍が占拠して一部分に俘虜収容所を設定してあった処であるが、今度はその四分の一は逆に日本軍俘虜部隊が収容され、
四分の三の建物へ居留民が集結させられるのだから敗戦の現実をはっきり胆に突き刺される感を深くしたことである。
営内をまず第一区、第二区、第三区に区分し、其の各々の建物を兵舎から住宅に改造し且つ部屋の区分を大小に按配し、家族者及び分会において救恤を要する家族の定住所などに設営する手順を決定してこの日は引揚げた。かくて設営部隊は営繕班、電気班を主力として各建設会社の協力を得て十一月六日あらためて一切の設営資材を携行して先遣され五日間に其設営を完了した。
十一月十一目予定通り西苑集結が開始された。北支軍から提供されたトラック三百七十五台が早朝から北京の各方面に計画通り配置された。一台に二世帯が割当られ、可能なだけの所持品の持込みが認められたが特に必要なものは
(一) 主食
(二)燃料(石炭) とストーブ
(三)当座の副食物及び調味料
(四)畳及び敷物
(五)布団類
などでそれに衣類や生活調度品と数え上げるとトラック一台に二世帯分の財産はまさに満載の状態である。従ってどの自動車も満載された富裕な引越部隊となり、それに無収入のまま今後半か年は徒食生活せねばならぬ覚悟が必要だ。それでも市内から城外へ婉々として続く引越部隊は”帰国する”との希望に胸をふくらませて静粛に集結所の入口へ到着すると受入れ配置係主任高橋酉蔵(不動産銀行支店長)以下十数名の係り員に誘導されて各区の各棟へおさまったことである。
私も社宅を引揚げる日の光景は夢のように忘れ得ぬものがある。同居していた佐藤氏の家族と四名で一台、もとより思い切って物欲を捨てて積み込む荷物は一台で充分であった。大部分の家財は婀媽夫婦と前に使傭した兄妹の車夫と綱削に均分に譲与したので彼等四人が献身的に引越荷物の積込みを手伝って呉れた。佐藤氏の幼童を可愛がっていた婀媽は幼童との別離を哀しんで大声を挙げて泣き叫ぶ一幕もあって一時はシュンとしたが既にあきらめていたので特に心残りはなかったけれど、愈々トラックが出立という間際に主なき家にかかって来た電話の鈴の音だけがいつまでも後ろに聴える思いがしたのを印象深く思い浮ばれる。
動き出した自動車が途中で三々五々合流し西直門へ来た時は四、五十台になった。此所では城外へ出る車を検閲するため巡警と兵隊との二重臨検を受けるため一時間半ばかり手間どった。
“ 武器を積んでいないか”
“禁輸品を隠匿していないか”
というのが表面の理由だが実は軍と官とが競って臨時収入を稼ぐのが目的のようなもので、兵隊にも巡警にも若干の贈賄したものは車内を掻きまわされる難から免れることが出来た。
“誰彼は一万円贈賄して無難であった”
“誰は車内をかき廻されて三万円没収された”
というような噂がしきりであった。幸い私は一万二千人移動の責任者というので特別な検閲をうけず、兵隊も巡警も挙手の礼を以て遇してくれた。かくて検問所を無事通過た集結部隊は午後二時頃集結所の入口に到着して第一日を終ったのである。

集 結 生 活

翌日のこと、まだ引越荷物の整理にもかからぬうちに一人の男が私の部屋へ飛び込んで来て“赤ソ坊が産まれそうなんです、産婆さんを早く・・・・・“と申込んで来た。まもなく”子供が亡くなつたから坊さんを……″と申込んで来る。何処へ誰が定着したかまだ不明なのでそれから一区二区三区と順に、産婆と僧侶を探し廻るという仕末である。そこで早速本部事務所で幹事会を開き各区に区長を選任する件を議決して次の如く任命した。

第一区長谷本憲一(華北交通済南駅長)
第二区長岡田志紀(電々文書課長陸軍大佐)
第三区長吉野次郎平(北京内二区長)
後に増田 貢(華北インク専務取締役)

西苑集結所は兵舎跡で加うるに日本兵一個大隊余り俘虜として収容されている関係上、建造物は一切中国軍の管轄に属し李大啓大佐の指揮下にある。但し居留民の管轄権は北京市警察局の許にあり、邵克励警視の保護をうけるという仕組で、居留民は此の軍官二重の支配下に置かれていた。系統別に記せば

「軍」 (イ)第十一戦区司令長官部参議、第十一戦区日
本徒手官兵集中営管理所長少将馬友文
(ロ)西苑日本徒手官兵集中営管理所長大佐、李大啓

「官」 (イ)北京市警察局長、日僑集中管理所長陳縁
(ロ)西苑日僑集中管理所長警視、邵克励

「党」 第十一戦区司令長官司令部党政処長少将、周範文
というので、爾来この三者から三様の命令が適時発せられ、それを適当に遵守するためには各種の政治工作を必要とした場合は一再にしてとどまらない。
私自身の立場も集結後支那側から公式に任命され次のような辞令を受取った。

北京市日僑集中管理処訓令 令 高木冨五郎
茲派西田晰一為北京市日僑自治会会長、華山親義為副会長、
八尾孝次為北京市日僑自治会新市区分会分会長、
高木冨五郎為北京市日僑自治会西苑区分会分会長、
仰即剋日組織並将
組織情形章則人員従速分別造冊具報来処以憑査為要
此令
北京市警察局局長兼
日僑集中管理処処長陳侮‘
中華民国三十四年十一月二十九日

集結生活はあくまでも自治でなければならない。殊に「日本に帰国する」ことを唯一の念願としている一万二千人のためには分会の任務は「帰国事務」に専念することだけであった。軍司令部も大使館も総領事館も其の機能が停頓していた際だから、民間人の組織たる自治会が中国側の軍官と交渉の任に当らねばならぬ。其の連絡事項が重大であった。
そこで集結所内の生活指導は各区長を中心にいわゆる「保甲制度」を活動させる仕組をつくり隣組会議で民主的処理をはかるをモットーとした。

(イ)分会事務所。毎日会議を開き、各班長は其の担任事項の推進に、提案に忙 しい。まず第一が教育問題で、帰国後それぞれ内地の学校へ転校する児童生徒には相応の実力を養成して置く必要かある。幸い集結者の中には各種の職業人が居るので小、中学校教員も多数動員して第一区の一棟を改造して十二月から中学と小学校を開校した。

(ロ)救恤班。寸暇なく忙殺された。北京時代は相当な生活をしていたのに終戦と同時に銀行預金は凍結して四百万円記入の預金通帳を持ちながら其の日の生活にも事欠く気の毒な人もあった。かかる要救恤者には三食の給与が必要なので分会直営の食堂を設けたが司厨には元軍人の料理番の経験ある者が当り、被救恤者は千八百人の多数に及んだ。

(ハ)物資班。近郊の商人に交渉して肉、野菜等を仕入れ、これを販売するために倉庫の一部を開放して市場(マーケット)を開業した。

(二)医療班。即刻病院を開設して重病患者は入院せしめ、伝染病は別棟へ隔離する手筈をととのえた。

(ホ)警務班。各区内は分会において自治的に警備するので班員は昼夜交代で任務につき早くも起った各種犯罪を処置するために献身的に活動した。

(へ) 渉外班。帰国準備交渉の仕事は総務班帰国室と協力して北京市警察局や北京の目僑自治会本部との連絡に狂奔した。

(ト) 総務班。担当が経理事務だから苦労が並大抵でない。班員は大部分が銀行員たちだから経理事務はまことに堅実正確に処理してくれた。
これら分会のために献身的努力をしていた人たちは勿論全くの無報酬でひたすら帰国の日を待つ同胞の希望を満たす喜びを分担してやっていたのである。


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