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2023.04.22 自分史・家族史「ご質問にお答えします」 投稿者:オーマン 康子

第5の質問
 子育てで苦労したこと。

 私は5人の子供に恵まれました。それぞれが2歳ちがいでしたので、彼らが幼児期、学童期にあっては一人ひとりに十分時間をとって子育てに時間をかけてきたというよりも無我夢中で過ごしてきたように思います。それに主人が月の半分は家を空けていましたので、その辺も私は何が何でも子供に事故のないように無事にと考えて過ごしてきたように思います。今ふりかえってみるに、私自身子育てに未熟者でしたから、大変だったことは確かですが、それが全ての苦労したこととは思っていませんし、何に苦労したのかを忘れてしまっています。子供が青少年期に達した当時のほうが子供たちと接して、親としてどう導いたらよいかを常に考えて過ごしていたように思います。それぞれの成長期の期間を区切って思い出して述べてみることにします。

幼児期
 長女は人を恐れることをしない子でした。庭で遊んでいても誰か道を歩いて通る人がいれば、声をかけてその人について行ってしまう子でしたので、常に目が離せませんでした。長男も同じでしたし、考えてみるに我が家の子供は皆そのようでした。ただ3女はもう少し注意深い子であったと思いますが意志が強い子だったので、自分の考えたことを押し通さないと気が済まないので、その点を兄弟同士上手くやっていけないこともあり、落ち着かせることが大変でした。

 私たちは子供にテレビを見せることをしませんでした。常に親が選んで良しとしたビデオだけをみせていました。ただよいとおもったゲームは手をうまく使い操作ができるようにと遊ばせましたが、いつの間にか操作を覚えた次男は一人でスイッチを入れて遊ぶようになっていましたので、驚きと同時にあまりそれらをさせないように言い聞かせてはいましたが、幼い子をどういいきかせていくのかが大変でした。

 次女は親の私たちからみたら、世話のない子でした。しかし、おしゃぶりを与えたことが彼女からそれをはなすことができず、それに苦労しました。おしゃぶりは赤ちゃんのするものと言っていいきかせました.が、なかなかききめがなく、主人は酷ではありましたが、ある日辛いスパイスをほんの少し指につけてその指を口の中にいれたことにより、それ以来、おしゃぶりをやめました。

 親は子供に色々な食べ物を与えて健康な子供に成長してほしいということから、たとえ子供が嫌いであっても食べさせるように工夫して食卓に並べます。長男はグリーンピースが苦手でした。それが入っている食べ物をみると必ず、眠くなったと私に訴えてきました。そこでそれなら、早く食べてベッドへ行くようにと言って、ベッドに行かせました。決して眠くはないのですが、グリーンピースを食べたくないためでした。ある日、私はテーブルをきれいに拭いていてふとテーブルの下を覗いてみると、長男が座っていたところにはそのグリーンピースが沢山張り付けてありました。親はいやであっても食べてからベッドにいったものとおもっていましたが、なんとテーブルの下にあったことに、驚きました。そのことがわかってしまってからは言い訳はできないことがわかり、時間をかけて食べていました。

学童期
 長女が小2学年、長男が小1学年の夏が近い時期に東京に引っ越してきました。そこで特別に許可をえて、地元の小学校に入学を許可していただきました。既に4月もとうに過ぎていて、日本の小学校に通うなら、二人にランドセルを買い与えたほうがということで、店にいき買い求めようとおもいましたが、時期も時期ですので、店先には当然見当たりませんでした。店員の方に裏にいって探していただくことにしました。店員はすぐにはもどってきませんでしたが、手にこれ一つだけと赤と黒のランドセルをみせてくれました。私たちはそれを買い求めて、いざ小学校へ歩いて登校していきました。当時は現在と同じように朝は近くの子供たちとそろって登校していました。

 長女は沖縄で生まれて4年ほど日本語のみで会話していたのが、次の転居先のハワイでは英語でしたから、日本語がおぼつかなくなっていました。学校ですぐに男の子たちとお友達になり、遊んでいるうちに男の子が話している日本語を話すようになっていました。娘には男の子が話す言葉と女の子の話す言葉があるとは知らずにいましたから、その区別を教えることが大変でした。

 長男は相変わらず、色々なことに興味をしめす子供でしたから、下校時は道を歩いていてなにがしかに興味があれば、そこを離れずに長い間ながめていました。ある日、畑仕事をしているおじさんに出会った彼は何をしているのかを問い、ずっと眺めていたことにより、帰宅が大変遅くなったのを覚えています。道草は長男の得意とするところでしたが、安全を考えるとずいぶん心配しました。

 次男は近くの幼稚園の年中、次女は年少に入園して翌年、次男が年長になったとき、夏以降は大変忙しく過ごすことになりました。午前中は日本の幼稚園年長クラスで過ごし、午後はキンダーガーデンに通い英語で過ごしていました。ですから、お昼時期に迎えに行ってキンダーガーデンに行く途中、車の中でお昼ご飯をたべるといったぐあいでした。それは親子ともども大変なことでした。そうした年の翌年にはマレーシアに引っ越しして今度はインターナショナルスクールに通うことになったので、その苦労もよかったかとおもいました。

 大人になった今、長男は喘息に悩まされることはもうありませんが、子供の頃は小児ぜんそくでよく医者に通ったものです。それはこどもだけでなく親も大変なものでした。子供の健康は親にとっては大変気をつかうものでしたので、あの頃は大変苦労しました。今から考えると私たち親は健康と忍耐を学んだようにおもいます。

青少年期
 中学校そして高校は我が家の子供は学校生活で大変忙しい時期を過ごしたと思います。そしてそれは親も同じように子供を支えるために努力しました。
アメリカではほとんどの州で学年制を5、3、4年制を取り入れています。ですから日本の小学6年生はアメリカでは中学1年生です。中学生になるとクラブ活動も盛んにおこなわれますが、それに参加しなくてはならないということではありません。もしクラブ活動をしていれば放課後には練習、週末でも練習や試合、競技会があります。高校になれば科目によってはただ宿題さえしてテストが良ければというものでないものもあります。自主的に調べてその内容を他校へ出かけて行って発表したりして競うものがあります。また、理科系のクラブ(サイエンスオリンピアードとよばれ種目別に競技がおこなわれ、1チーム14名ほどで結成される)であれば他校と地区大会で競い、もし成績がよければ更には州、全国大会への競技会に出て競います。

 我が家の子供がそのオリンピアードチームに参加資格を得る機会がありました。日本で毎年行われる野球大会のようなものでしょうか。全国大会に出場出来れば大変名誉なことですが、それには練習に時間がとられ、家でゆっくりしているわけにはいきません。他校へ行って競技会となると早朝に学校に集まらなけらばなりませんし、競技が終わって帰宅するのは夕刻であり、翌日の日曜日は教会の集会へ出席して、そのほか、若い男性、女性の集会に出席しそして週日の早朝は高校生になるとセミナリーがあり、それに出席しますので常に寝不足と体の疲れを感じながらの生活でした。親である私たちは彼らの健康管理と睡眠をどうとらせたらよいかの毎日でした。今思えば、子供は親以上に毎日が苦労の連続でしたが、それを乗り越えて、頑張ってきたことを嬉しく思います。

第6の質問
 ワードや扶助協会の活動

 基本的には日本であってもアメリカであっても同じプログラムや活動が行われていると思います。
アメリカのワードでは5月の母の日の為に聖餐会では特別プログラムが組まれ、終了後若い男性、女性がチョコレートなどを姉妹たちに配ります。11月にハローインがありますが、プライマリーの子供の為に教会の駐車場に駐車してあるそれぞれの車を回ってトリックオアトリートといってお菓子をいただきます。私たちのワードでは冬にはスキーに行く計画もしていますが、参加希望者のみの活動です。ワードピクニックもあります。かつては監督会あるいは長老定員会が準備してバーベキューをしていましたが、今は持ち寄りにしています。クリスマスの食事についてもおなじですが、肉類については扶助協会や長老定員会が準備しているでしょうか。食事のあとはクリスマスプログラムで歌をいっしょに歌ったりしていますが、これについては時の指導者によって異なります。聖餐会におけるクリスマスプログラムはイエスの誕生の意味に重きをおいていますので、霊性のあるものです。イースターも同じで聖餐会で特別なプログラムを組みます。

 若い男性は今まではボーイスカウト活動をしていましたが、今は教会ではボーイスカウトを取り入れていませんので、異なった活動をしています。夏にはキャンプに出掛けていると思います。私たちの息子たちはボーイスカウト活動で最高の賞であるイーグルスカウト賞をとりました。若い女性たちにも同じように目標達成プログラムがありますし、また夏にはキャンプがあります。

 扶助協会は毎月一度の活動があり、その活動はワードによってことなります。私たちの今月の活動はスワップつまり、生活していて使用していない品物を持ち寄って自由に交換したりしました。また、そのとき、スープ、サラダ、パン、デザートとサインしたものをそれぞれに持参して皆でいただき、楽しみました。先月はカード作りを習い、その後は軽いデザートを楽しみました。これも前もって何を持ってこられるかをサインした姉妹が作ってあるいは買ってきたものを共にいただきました。そのほか、コミュニティサービスや神殿訪問など、同じようにどのワードでもおこなわれていることでしょう。

第7の質問
 ウクライナ戦争に関して何かされていますか。
これについてはアメリカ人は国内で個人的にされているかたと、そうでない方といることでしょう。
私自身はこれについての質問は避けてお答えしません。私個人、高齢の身ではありますが、まだ日本人国籍のままでありますし、このアメリカで外国人として生活している身でいますので、これに関する執筆を控えさせていただきます。多分奉仕されているかどうかの質問ではあるとはおもいますが、控えます。あしからず。

第8の質問
 日本の健康保険の代わりになるものがありますか。
アメリカでは日本のように全員が国民健康保険に入会して保険証をもっているわけではありません。個人が保険会社と契約して万が一の病気に備えています。ですから、保険に加入していない人もいるはずです。それから保険にも色々な補償がことなり、勿論高い保険に加入していれば、それによって扱いもことなってきますし、検査もことなってきます。それから、アメリカでは保険は健康保険といっても歯の治療には別の保険にか加入しなければなりません。私たち夫婦は高齢者が加入するメディケアという保険(これは連邦政府による管理)に加入していますし、それ以前に加入していた保険にも引き続き加入していますので、医者にかかる費用には足りています。それからこれも高齢者のためにメディケイドというのがありますが、これは低所得者のための保険です。アメリカでは高い保険に加入していればいるほど、手当や検査がいくらか異なると思います。私は保険制度について知識不足ですので、グーグルで検索してみたらより理解されりかとおもいますので、検索してみてください。

 以前第3の質問の文化の違いについて私個人の意見をのべさせていただきましたが、皆さんはユーチューブをご覧になられることがありますか。そのユーチューブで色々な人が外国と日本の風習や文化の違いについての画像をだしています。

 
 大抵は日本の生活習慣で、店に行った時の店員の接客サービス(客への丁寧なあいさつ)、清潔さ(公共の綺麗さ)、正直さ(財布などおちていればとどけたりする)、車のマナー、交通システム(時刻の正確さ)等々あげています。ただそういうことは日本では当然のことですので、普段あまり気にはかけていませんし、観光客にとってはこと珍しく目にすることでしょう。一つ気ずいたのですが、確かに接客サービスは誰でも店に入っていくと、いらっしゃいませとあいさつはしてくれますが、品物を求めるにあたって、更に詳しい質問をすると専門的知識がない店員だどわからないと答えるだけで、それでは専門に知識を持っている店員を呼んでくるということはないように見受けられます。本当のサービスはお客さんの満足の行くまでサービスをしてくれるのか本当の意味でのサービスであると思います。そういう方を置いている店をもっと望んでいます。

 今後6月までの間、この穀粒に益々のご活躍をされて行かれますようにそして成功のうちに閉じることができますようにと祈っています。長い間ご苦労様でした。
これからも機会がありましたら、メールでお元気な様子をお知らせ頂ければ嬉しく思います。

  • 無我夢中でも思慮深く子育てをおやりになられてご立派です。それも殆んどご自分一人でだつた
    なんて、幼児の頃はさぞ手がかかつたことでしよう。姉妹の芯の強さが、(鉄の棒のような)全ての原動力になつていると感じました。
    -- 岸野みさを 2023-04-22 (土) 20:01:23

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